織田有楽斎が命乞い?史実でも甥を見殺しにして逃げ出した臆病者?
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大河ドラマ「真田丸」
井上順さん演じる「織田有楽斎」が命乞いして大阪城を追放?
織田有楽斎は史実でも、甥を見殺しにして逃げ出した臆病者だった?
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■大河ドラマ「真田丸」で織田有楽斎が命乞い!
大河ドラマ「真田丸」。
徳川家康と内通して、豊臣家でスパイ活動をしていた織田有楽斎。
家康に内部情報を知らせようと手紙を書いて部下に渡した・・・・と思っていたら、渡した相手が真田幸村さんだった・・・。
家康とつながっていた事がバレてしまった織田有楽斎。
「私は織田信長の実の弟。命乞いなんてしないぞ」
って言っていたはずなのに、数秒後に刀を向けられたら一言
「待て!!」
いきなり命乞い・・・。
こんなやつは斬る価値ない・・・・とでも判断したのか?真田幸村は「出て行け」と一言・・・・。
そそくさといなくなる織田有楽斎
真田丸でおなじみになった「ナレ死」こと「ナレーションのみで死を告げられる」パターンでいなくなる織田有楽斎。
「この後、織田有楽斎は京都で穏やかな余生を送った」
んだそうですわ(T_T)
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■史実での織田有楽斎の大阪城退去とは?
実際織田有楽斎さんは、大阪冬の陣では大阪城にこもって、姪である淀殿とその子秀頼を後見しているのですが、大阪夏の陣の直前に大阪城を退去しています。
史実での織田有楽斎さんの「大阪城退去」ってどんな形のものだったのでしょうか?
織田有楽斎さん。実際には、大阪城内にいて、敵方の徳川家康とのパイプ役、つまり交渉の窓口として活動をしていたのだそうです。
当時、豊臣が徳川軍と戦っても勝ち目はないことは明らかでした。
何と言っても兵力が違いすぎます。
徳川軍20万。豊臣軍は現代の「外人部隊」のような「牢人部隊」を集めまくって10万。統制が取れないと思われていたのです。
そんな中で、姪を救おうと、家康との交渉窓口だったのが織田有楽斎。
血の繋がった姪を見殺しにするのは忍びなかったのかな?
しかし、大阪城は次第に「牢人部隊」の意見が取り上げられるようになり、主戦派の意見が取り上げられるようになります。
そんな中、穏健派・和睦派だった織田有楽斎の存在感は次第に小さくなっていきます。
そして、大阪夏の陣が避けられなくなった時、有楽斎は家康に対して「大阪城を退去したい」と申し出ます。
「もう大阪城内にて、私の指示に従う人間はいません!」
とのこと・・・。家康は織田有楽斎に「大阪城退去」の許可を出します。
そして織田有楽斎は大阪城を出ていったんですね。
どうして織田有楽斎は大阪城を出て行く際に、家康の許可を貰わなくてはならなかったのか?
やっぱりスパイだったから?
実は大阪冬の陣、終結の際に、和睦条件として、「織田有楽斎の子供を人質として徳川軍に差し出す」という条件が盛り込まれていたのです。
そのため、下手に単独で行動を起こしてしまうと、織田有楽斎の子供が殺害されてしまう可能性があったので、家康の許可をもとめたのだとか。
その後、織田有楽斎は名古屋にいた徳川家康に大阪城内の状況を伝えています。
「牢人部隊が大阪城を支配している」
とでも言ったのでしょう。
その後は京都東山で得意の「お茶・茶道」に没頭し「有楽流」という流派を立ち上げて、現代まで伝えられるに至ったのでした。
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■織田有楽斎・・・甥を見殺しにして一人逃亡?
本能寺の変で、織田有楽斎の人柄がわかる逸話があるみたいです
織田有楽斎は兄・信長の長男「織田信忠」の補佐役として行動をしていました。
この織田信忠は、「本能寺の変」の時、信長がなくなった「本能寺」のすぐ近く二条城というところにいました。
織田信忠は「父・信長を助ける」と言って出陣しようとしますが、明智光秀の軍勢があまりに多く、手も足も出せずに自刃しています。
織田有楽斎は、甥が自刃したにもかかわらず、なんとか逃げ切って安土城に逃げ込んだそうですね。
当時、京都の民衆が噂したらしいですが、信忠に自刃をすすめたのは織田有楽斎さんだとか。
織田有楽斎・・・・甥っ子死なせといて自分は逃げ切ったの?
「織田有楽斎は人じゃない」
なんて陰口叩かれていたそうですよ。
織田有楽斎さん・・・・茶道が得意な文化人で、戦いは苦手だったのかな。
400年も続く「有楽流」という流派を立ち上げたのですから、茶道の腕前はかなりのものだったと思うんですけどね。
■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・織田有楽斎が、真田幸村に命乞いしていた。
・織田有楽斎は、史実では家康の許可を受けて大阪城を退去している。
・本能寺の変で、甥の織田信忠に自刃をすすめておきながら、自分は生き延びたらしい。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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