真田幸村の史実での最後は超壮絶?伊達政宗との密約の真の狙いとは?
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真田幸村の最期とは?
死の直後、髪の毛をむしり取られた?
娘や息子を預けた「伊達政宗との密約」
この密約には、実は天下奪取の狙いがあった?
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南無阿弥陀仏・・・。
■真田幸村の最期
人気の大河ドラマ「真田丸」
その真田丸の主人公・真田幸村。
真田十勇士などの物語で古くから人気のヒーローですが、彼の史実での最期とはどんなものだったのでしょうか?
真田左衛門佐幸村・・・・亡くなったのは1615年5月7日。
父は真田昌幸。
左衛門という名前は、父の真田昌幸の兄で、猛将と言われていた「真田信綱」が名乗っていたものらしいです。
その伯父の武勇にあやかりたいという理由で「左衛門」と名乗っていたとも・・・。
そして真田幸村の本名「信繁」について・・・諸説あるということですが、真田家が仕えた武田信玄の弟「武田典厩信繁」から貰った名前だと言われているみたいですね。
「武田典厩信繁」といえば、第四次川中島の戦いで亡くなった名将。
武田信玄が信頼した名将で、後世の評価も高い武将です。
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史実上の幸村の最期とは?
真田幸村・・・・大阪夏の陣にて亡くなっていますが、その時、幸村は一つの作戦を立案しています。
真田幸村・毛利勝永・大野治房の3名が、大阪城南に布陣し、敵総大将徳川家康の周囲を固めている敵を引き付けている間に、明石全登が率いるキリスト教徒部隊300名が、茶臼山の南方を迂回して家康本陣を急襲するという作戦。
この作戦が成功すれば、徳川家康を討ち取って勝利できるはずでした。
しかし、現実には作戦は失敗していまします。
失敗の理由は、毛利勝永率いる部隊が、予定よりも早く開戦してしまったため。
そのため、明石全登が家康の本陣後ろに到着することが出来ず、奇襲作戦は瓦解したのです。
毛利勝永が開戦してしまった理由は、兵士の先走り。
毛利隊の兵士が、興奮状態に陥ってしまったため、鉄砲での銃撃を開始してしまったので、徳川軍もこれに応戦。
その為、真田幸村は奇襲作戦を諦めて、自らが率いる部隊3500で徳川家康の本陣へ突撃。
真田幸村は松平忠直などを始めとした10以上の部隊から攻撃を受けたそうですが、それを全て撃退。
徳川家康の隊へ突撃。
家康を討ち取ろうと、真田幸村は用意していた新兵器「馬上筒」を構えていたそうですが、残念ながらその馬上筒、落っことしてしまったみたいですね。
詳しくは以下のリンク記事を御覧くださいませ。
しかし、家康は後方へと退きます。
どうやら家康は、2度も切腹をしようとして周囲の家来に押しとどめられたみたいです。
家康は、布陣していた天王寺から3里、約12キロを撤退したと言われています。
一度は敗退した家康の孫・松平忠直の部隊が、幸村の部隊を攻撃。
その為真田隊は壊滅してしまい、幸村も撤退。
幸村はその後、安居神社で休息していたところを松平忠直の家来「西尾宗次」に殺害されたみたいですね。
噂では西尾宗次はこの時、相手が真田幸村とは知らなかったみたいですが、首を打った後に、判明したのだそうです。
真田幸村の首を家康に見せようとした孫・松平忠直。
しかし家康は幸村の首を、犬にくれてやれ!と言ったのだとか・・・・。
一説では、幸村の首は諸将の手によって髪の毛をむしり取られたと言われています。
その見事な戦いぶりに心酔していた諸将が、その武勇にあやかろうとして、髪の毛をお守りにしたのだと言われています。
三国志の名将・関羽の死の際にも、似たような話がありますね。
伊達政宗も、真田幸村の戦いぶりに感心しきりだったみたいです。
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■伊達政宗に預けられた子供たち
その伊達政宗、幸村から、娘の「お梅」と次男の「大八」を預けられた話で有名です。
大八はその後、「真田守信」と名乗って「仙台真田家」を起こして明治まで続いたということです。
幸村の娘・お梅ちゃん・・・・彼女は伊達政宗の参謀「片倉景綱」の息子「片倉重長」の妻になったと言われています。
真田幸村は、大阪夏の陣で、伊達政宗の軍と交戦。
その時伊達政宗の軍は、真田幸村の部隊を攻めきることが出来なかったのだとか・・・・。
それにしても、一度交戦したはずの伊達政宗と真田幸村・・・・どうしてそんな敵同士の二人が、子供を匿うような真似をしたのか?
伊達政宗にとって、真田幸村の子供を匿うことは、徳川家康に睨まれることにもなるでしょうから、おそらく危険だったことでしょう。
それでもなお、真田幸村の子を預かるとは・・・・何か密約でもあったのでしょうか?
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■伊達政宗・真田幸村の密約?その真の狙いとは?
真田幸村の子供「大八」と「お梅」を預かった伊達政宗。
どうして伊達政宗はそんな危険なことをしたのか?
そして幸村はどうして子供を伊達政宗に預けたのか?
その狙いはどこにあったのか?
拙僧の予想でしかありませんのでご了承下さい。拙僧の予想は全く当たらないことで有名なのでそこんとこよろしくお願いいたします(T_T)
おそらくですが、伊達政宗が真田幸村の子を預かったのは、天下を家康から奪いとるための作戦の一つだったのではないでしょうか?
天下を取るために幸村の子供を手元に置いておいたのでは?
どういうことなのか?
伊達政宗といえば、天下を取る野望を死の寸前まで捨てなかった野心家として有名です。
彼はスペインと秘密同盟を結び、スペイン艦隊と協力して天下を制覇しようとしたと言われています。
そんな野心家にとって、真田幸村の子供は非常に役にたつでしょう。
どういうことかというと、徳川家と戦う際に「大阪の陣で奮戦した真田幸村の息子」は、良いシンボルになるということ。
徳川軍には、おそらく真田幸村に痛い目に合わされた武士がたくさんいるでしょう。
真田幸村の子、と聞いただけで、戦意を喪失する敵もいるかもしれません。
そして、真田幸村の子を味方においておけば、伊達軍に味方する人も大勢いることでしょう。
つまり、伊達政宗は、徳川家から天下をもぎ取る際に備えて、真田幸村の子「大八」を手元において温存しておいた・・・・のではないでしょうか?
そんな伊達政宗の野心を、真田幸村も見抜いていたのかも・・・。
だから、伊達政宗に子供を任せれば、大切に保護することがわかっていたのかもしれません。
伊達政宗・・・・領国の仙台では、常に江戸からの軍隊を迎え撃つ準備が整っていたと言われています。
伊達政宗が建立した瑞巌寺は徳川軍を迎え撃つ出城だったとも言われていますし・・・・。
真田幸村・・・・もしかしたら、徳川打倒を息子と伊達政宗に託していたのかもしれませんね。
また、まさかとは思いますが、大阪の陣が始まる前から、幸村は伊達政宗と連絡をとって密約をしていたとか?
野心家の政宗と、策略家の幸村・・・それくらいの密約はあってもおかしくないとは思いますが・・・。
もしこの仮説が当たっていたら・・・・・面白いんですけどね。
史実では、伊達政宗はその後、おとなしく仙台の領地を納めています。
政宗の天下奪取の夢は叶わぬまま・・・・で終わりました。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・真田幸村の最期は、徳川家康の部隊に突撃しての派手なものだった。
・真田幸村は子供を伊達政宗に託した。
・政宗が幸村の子を預かったのは、徳川家との戦いに備えてのものかも。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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