真田丸の阿茶局は和睦交渉で大阪城の堀を崩壊させた天才軍師だった?
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大河ドラマ「真田丸」で、「斉藤由貴」さんが演じている「阿茶局」
家康の側室だった彼女は、実は難攻不落の大阪城落城を実現させた天才軍師だった?
大阪の陣の後も、活躍しっぱなしで、最終的に大出世?
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■阿茶局(あちゃのつぼね)の詳細
「阿茶局(あちゃのつぼね)」・・・・大河ドラマ真田丸では「斉藤由貴」さんが演じていますね。
ドラマの中では彼女は凛とした女性で、家康を事ある毎に励まし・・・言い方を変えると「尻を叩く」様子が演じられてました。
実際・・・阿茶局は非常に賢い人物だったようです。
ちなみに、家康の側室には「茶阿局(ちゃあのつぼね)」という、よく似た名前の側室もいたらしいですが別人です。
「茶阿局」は家康六男で伊達政宗の娘婿「松平忠輝」の母親ですね。
話を戻します。
阿茶局は、武田信玄の家来だった飯田直政の娘。
最初の夫は今川氏の家来だった神尾忠重。ちなみに息子が2人います。
しかし夫はあっという間になくなってしまい、その後徳川家康に側室として迎えられたのです。
家康との間に子供はなかったようです。
家康の後継者である「徳川秀忠」と、その一歳年下の同母弟「松平忠吉」の2人は、生母である「西郷局」を亡くして養育する母がいない状態でした。
この2人を母代わりに養育したのが「阿茶局」。
秀忠は後に2代将軍となって徳川幕府の地盤を固め、松平忠吉は「関ヶ原の戦い」で猛将・福島正則を出し抜いて先陣を飾り、猛将・島津豊久を討ち果たした名将。
この2人を育て上げた阿茶局は、賢母と言っていいのではないでしょうか。
さらにはその能力を家康に認められ、後の大奥である「江戸城奥向き」の取締を任されたということです。
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■大阪城の堀を埋めさせた功労者?
1614年、大阪冬の陣。
この大阪冬の陣で、徳川軍は予想外に苦戦したと言われています。
そこで、徳川家康は、大阪城という鉄壁の要塞の防御力を削ぎ落とすことを考えます。
取った作戦は「和睦」。つまり「平和協定」。
この和睦の交渉を行ったのが「阿茶局」。
豊臣軍の交渉担当は淀殿の妹「常高院」こと「お初」。
阿茶局はこの交渉で、「大阪城の堀を埋めたてろ」という条件を提示します。
初め、豊臣軍はこの条件に難色を示したそうですが、阿茶局の交渉力でしょうか・・・・和睦案を受け入れました。
とはいっても、当初の約束では「外堀」のみ埋め立てるという話だったそうですが、徳川家康は約束を破って全ての堀をとっとと埋めきってしまったとか・・・。
大阪城という当時日本最強の要塞の防御力を下した阿茶局・・・・ある意味で、「家康の軍師」といえる存在だったのではないでしょうか。
家康は隠居する際に、江戸城から駿府城に移り住んでいますが、その時、すでに50歳近かった阿茶局をも一緒に連れて行ったそうです。
家康はこの時、寵愛していた側室「お梶の方」を江戸城に置いていったそうです。
この点からしても、家康は阿茶局をかなり信頼していたのでしょうね。
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■大阪の陣後の阿茶局の活躍
大阪の陣が終わった5年後の1620年、阿茶局に再び活躍の場が巡ってまいります。
それは「和姫入内」。
徳川秀忠は自身の五女「和姫」を後水尾天皇の妻にすることを画策します。
これは「自分の娘を天皇の妻にし、産まれた男の子を天皇に即位させて、自分の権威を高めよう」とする秀忠の思惑だったそうです。
和姫が嫁入りする際に、阿茶局は彼女の守役、つまり「秘書・相談役」のような役目を受けて一緒に京都御所へ。
そこで阿茶局は、しきたりなどで難しい「皇室」での生活を、和姫を守りながら乗り切ったとか。
その甲斐あってか、和姫は後水尾天皇から気に入られ、2男5女を出産。
しかし、秀忠の孫を天皇に!!という希望は半分叶えられ、半分は失敗します。
産まれた2人の皇子は夭折してしまい、後水尾天皇は和姫との娘(明正天皇)に位を譲ります。
阿茶局は、それまでの功労を後水尾天皇に讃えられ、女性として最高の官位である「従一位」の位を貰いました。
それ以降「一位局」「一位尼」などと呼ばれる様になったそうです。
阿茶局は1637年に83歳で亡くなり「雲光院」と呼ばれる様になります。
後の2代将軍を育て上げ、大阪城の堀を埋めさせ、更には和姫を守り通し、最高の官位をもらった「阿茶局」。
今で言うところのエリートだったのではないでしょうか。
■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・阿茶局は2代将軍徳川秀忠の育ての親。
・大阪冬の陣では和睦交渉人として、大阪城の堀を埋めさせた。
・和姫の嫁入りに同行し、和姫を守り通した。
・最終的に「従一位」の官位をもらった。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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