徳川秀忠死因は?戦下手でも家康より厳正で豊臣家を滅ぼした政治家?
Warning: Use of undefined constant user_level - assumed 'user_level' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/xyz123456789/namagusa.com/public_html/wp-content/plugins/ultimate-google-analytics/ultimate_ga.php on line 524
徳川家康の三男で、第ニ代征夷大将軍「徳川秀忠」の死因はなんだったの?
戦争は苦手で、下手だったけど、政治家としては父・家康よりも厳正な政治をした?
なぜ彼は長男・次男を差し置いて徳川家の家督を継ぐことができたのか?
豊臣家を滅ぼしたのは実は家康ではなく、秀忠だった?
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
下のリンク記事は別タブで開きます。
よろしければお付き合いくださいませ。
南無阿弥陀仏・・・。
■徳川秀忠とは?
徳川秀忠・・・・江戸幕府を開いて天下統一を果たした「徳川家康」の三男で、江戸幕府2代将軍となった人物。
母は家康の側室で「西郷局」。
1歳違いで同じ西郷局の子、つまり弟に「松平忠吉」がいる。
幼名は「長丸」。
徳川秀忠については、結構否定的な見方をする意見が多いみたいです。
なぜなら、彼が「天下分け目の関ヶ原」で犯した重大な失敗が原因でしょう。
1600年。豊臣軍を自称する2つの軍団が激突しました。
双方ともに「豊臣軍」を称していたため、紛らわしいので「石田三成方を西軍」「徳川家康方を東軍」と呼ぶようになりました。
徳川家康は東海道を西に向かい、徳川秀忠は徳川軍の本隊38000の軍団を率いて中山道を西へ向かいました。
そして、徳川秀忠は信濃・上田城にいた「真田昌幸」を攻撃。
しかし、真田昌幸の老練な戦いと、長雨によって遅れた家康からの使者。そして行軍の遅れなども重なって、秀忠が家康のいる関ヶ原に到着したのは、関ヶ原の戦いが終わった後でした。
この大失敗は後世「秀忠は戦下手」と言われる理由になってしまったらしいのですが、当然、これは「運が悪かった」と言うことも出来るわけで、徳川秀忠という人物をこの出来事だけで判断することはできません。
秀忠は、執政力については非常に優れたものを持っていたみたいです。
そして何よりも非常に真面目で、かつ温和な人だったとか・・・。
しかし、温和であったとしても、それを仕事に持ち込むことはなく、厳正な裁定を行う為政者だったみたいですね。
徳川秀忠という人物を調査してみましょう。
sponsored link
■厳正な政治家で、豊臣家を滅ぼしたのは秀忠?
徳川秀忠・・・・非常に厳正な裁きをする将軍様だったみたいです。
彼は温和・・・非常に優しい人・・・と言われているみたいですが、血も涙もないのか?と言われる程の仕打ちも、結構やっています。
まず最初に、実の弟「松平忠輝」の改易。
松平忠輝とは家康の六男。
忠輝は数々の乱行を徳川家康に咎められて、又は伊達政宗の娘婿だったことを家康に警戒されて、冷遇されてしまった人物。
家康から、大阪夏の陣で、将軍秀忠の家来を無礼だとして切り捨てた罪を咎められて勘当されてしまいます。
その後謹慎していた忠輝は、家康の死後、秀忠から改易・つまり領地没収を言い渡されます。
実の弟を追放処分。
しかも自らの次男「徳川忠長」を改易して謹慎処分にもしています。
まぁ、この改易は、忠長と仲が悪かった長男の「徳川家光」がやったことだとも言われていますが、厳格な秀忠がやったんじゃないでしょうかね?
更には甥、つまり兄「結城秀康」の長男「松平忠直」を改易・流罪。
そして、関が原の戦いで遅刻してしまった自分を庇ってくれた本多正純も・・・。
彼は遅刻した秀忠をかばうために家康に
「秀忠様が遅参したのは、私の父・本多正信の責任です。それならば私が、父・正信の首を持ってまいりますので、秀忠様をお許し下さい」
とまで言ってくれていました。
そのことに秀忠は感謝を惜しまなかったと言われていますが、それでも、後に秀忠は本多正純を改易処分にしています。
弟・実の子・甥・忠臣・・・・・彼らを「法を守らなかった」という理由で次々と改易にしたその厳しさ・・・・これは徳川家康以上だったでしょうね。
sponsored link
大阪冬の陣・・・・秀忠は、自分の娘「千姫」が大阪城内にいるにも関わらず「豊臣家との和睦に断固として反対」し、決戦を主張したと言われています。
結局「和睦」することになったのですが、その数カ月後の「大阪夏の陣」では、豊臣家を滅ぼす気満々。
先陣を父の家康と争い、とうとう家康もその熱意に負けて先陣を譲ったのだとか・・。まぁ、結局開戦してみると、先陣は家康が務めることになってしまったみたいですがね。
秀忠の遺骸には、銃弾を受けた傷跡が幾つかあったみたいです。
征夷大将軍でありながら、銃弾が身体にあたる位置で指揮をとっていた猛者でもあったんですね。かなりの筋肉質だったということですし。
家康は、関が原の戦い以後、10年以上かけて、辛抱強く「豊臣家に臣従を迫った」とされていますが、秀忠は滅ぼす気満々だったみたいです。
もしかしたら、豊臣家が完全に滅亡してしまったのは、秀忠のこの苛烈さがあったからかもしれません。
もっとも、大阪の陣で秀忠がやる気満々だったのは、関ヶ原の戦いの失敗を払拭する事が目的だったとも言われていますが・・・・。
拙僧は、弟や実の子を改易した秀忠が、豊臣家滅亡のきっかけだったのでは?と何の根拠もありませんが、なんとなくそう感じるのです・・・。
秀忠は、家来の「山口重政」を使って豊臣秀頼を暗殺しようとしたともいわれています。
秀頼を暗殺なんてしたら、自分の娘の千姫は間違いなく殺害されるだろうというのに・・・・。
この暗殺計画は、家康が反対したために実行はされなかったらしいですけどね。
「本多正信・正純」については以下のリンク記事をご覧くださいませ。
リンク記事は別タブで開きます。
sponsored link
■三男なのに、どうして2代将軍になれた?
さて、秀忠は家康の三男。
当時は長子相続が当然だった時代。
どうして秀忠は後継ぎになれたのでしょうか?
秀忠には2人の出来の良い兄がいました。
長男は徳川信康。
信康は武勇に優れた人物で、家臣からも将来を期待された人物だったそうです。
しかし、その才能を織田信長に警戒され、自刃を命令されたと言われています。
そして、次男・秀康。
秀康は家康に嫌われていた。と言われていますが、豊臣秀吉に養子に出され、その後、結城家に養子として出されているので結城家を継ぐ事になります。
その為、徳川家を相続することが出来ず、三男の徳川秀忠が後継ぎになったのです。
秀忠は、体育会系の多い「三河武士」の中でも、かなりおっとりした性格の人物だったらしいですが、それでも「守成の人」・・・つまり、創業した後の家を守るのに向いた人物であったと家康から評価されていたため、徳川家を継ぐことが出来たとも言われています。
sponsored link
ここでちょっと気になることがあります。
秀忠には、何人もの兄弟がいました。
「長男・信康」、「次男・秀康」、「四男・忠吉」、「五男・信吉」、「六男・忠輝」、「七男・松千代(夭折)」、「八男・仙千代(夭折)」、「九男・義直」、「十男・頼宣」、「十一男・頼房」
この中で、父、家康よりも長生きしたのは、「六男・忠輝」「九男・義直」「十男・頼宣」「十一男・頼房」・・・・・そして「三男・秀忠」。
六男・忠輝は父の家康に嫌われ、九~十一男までは秀忠と比べると幼い弟たちでした。
信康は秀忠が産まれた年に亡くなっていますし、五男・信吉は病弱。
しかし、秀康と忠吉は????
この二人には、「後継ぎとすべき」という家来からの声も大きかったと言われています。
それが、立て続けに病没しているんだとか・・・。
そのおかげか・・・・将軍職を父から引き継ぐ事が出来た秀忠。
秀康と信吉の死は、本当に偶然だったのでしょうか?
sponsored link
■秀忠の死因は何?
徳川秀忠は54歳で亡くなったとされています。
父の家康は75歳で亡くなったそうですから、それに比べるとかなり短い一生だったと思います。
秀忠の死因は何だったのか?
一般的に言われている死因は「胃がん」だそうです。
ただ、「全身に腫れ物が出来た」という症状から「悪性リンパ腫」という説も。
悪性リンパ腫といえば、女優の「椎名法子」さんの夫がこの難病に苦しんだと言われています。
さて、徳川秀忠さん・・・・彼の葬儀は非常に質素に行われたと言われています。
他人に対して法律を厳しく適用した徳川秀忠。
自分を理することにも厳しく、生涯で側室と呼べるような人はいなかったようです。
ただ、隠し子のような形で、「長丸(夭折)」「幸松(保科正之)」を産ませた女性たちがいたらしいですが、正式に側室はもたなかったのだとか。
父・家康と一緒に制定した法律「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」。
秀忠の人生をかけての役目は「この法律を破ったものは、こうなるんだぞ」と、厳しく法律を順守させることだったようです。
sponsored link
■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・徳川秀忠は、家康の三男で、第ニ代征夷大将軍。
・非常に厳しい人物で、弟、次男、甥、忠臣を次々と改易にした。
・長男が自刃。次男が養子になったため、三男の秀忠が徳川家を相続した。
・死因は「胃がん」又は「悪性リンパ腫」らしい。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
よろしければコチラの記事も合わせてお読み下さいませ。
リンク記事は別タブで開きます。
sponsored link
こちらも合わせてお読みくださいませ!
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。