カルバリン砲射程距離は?淀殿を震撼させ大阪城を破壊したその威力は
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カルバリン砲・・・・。
大河ドラマ「真田丸」で大阪城天守閣を破壊し、
淀殿の侍女を即死させた大砲!
当時最新鋭兵器の射程距離は・・・・なんと・・・。
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南無阿弥陀仏・・・。
■カルバリン砲とは?
大河ドラマ「真田丸」・・・。
「大阪冬の陣」にて、徹底抗戦を主張する「真田幸村」達「牢人部隊」に対して、「和睦」を主張する「豊臣家家臣」の方々。
和睦して、領地を保全してもらうことが目的だったのでしょう。
淀殿も、当初は家康を信用せず、戦闘継続を主張していたとされています。しかし叔父「織田有楽斎」や妹の「常高院・初」は、強く「和睦」を主張した言われています。
そんな淀殿の戦意をくじいたのが、当時最新鋭の兵器とされていた、イギリス製の大砲(大筒)、「カルバリン砲」。
意味は「蛇のような」という意味だそうですね。それだけカルバリン砲は「長さ」が特徴的なのでしょう。4.8mもあるそうです。
実はこれ、大英帝国イギリスを「世界の覇権国」に押し上げた程の代物。
イギリスと言えば、エリザベス女王の時代に、当時の世界最強国だった「スペイン」を相手に「アルマダの海戦」で衝突。
スペインは「無敵艦隊」と呼ばれる当時最強とされていた海軍でイギリス海軍を襲います。
しかし、イギリス軍は奇跡的に勝利!
その時のイギリス艦隊には、この「カルバリン砲」が搭載されていたというのです。
さて、無敵艦隊をも打ち破った「カルバリン砲」・・・・その射程距離と威力とは??
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■射程距離と威力は?
カルバリン砲の射程距離は、なんと「6300m」だそうです。
このカルバリン砲。大阪冬の陣では、徳川軍が、備前島(現在の都島区綱島町辺り)から大阪城天守閣に向かって砲撃。
それによって大阪城では、淀殿の侍女が即死したということです。
長さ4.8m・口径16.2cm・弾丸重量14.4kg
この当時の大砲は「炸裂弾」ではなく「砲弾」だったので、爆発はしませんでした。
しかしいくら自重だけの砲弾にしろ、14.4kgもの塊が落っこちてきたら大変でしたでしょう・・・・。
その威力は、淀殿の近習の侍女8名が即死した程だったそうです。
恐ろしい威力ですね。
1588年のイングランド対スペインの「アルマダの海戦」で、イングランド・スペイン両軍ともに「カルバリン砲」を使用していたみたいです。
イングランド軍の大砲はほとんどが「半カルバリン砲」と呼ばれるものだったそうです。
「半」とは、弾丸重量が通常の「カルバリン砲」の半分で、その分飛距離が格段に長いもの。
徳川軍で使われたものは、おそらく「全カルバリン砲」だったと思われます。つまり威力は「イングランド海軍」が「アルマダの海戦」でスペイン無敵艦隊を打ち破ったカルバリン砲より上。
このカルバリン砲を徳川軍は4門・・・・又は13門保有していたということです。
当時の大砲は砲弾が「まんまる」で、スクリューすることがない上に、矢のような羽もなかったため、空気の抵抗を受けやすく命中率が低かったと言われています。
徳川軍は、おそらく「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という具合に大砲を乱発しまくったのでしょう。
更には徳川軍は、国産の大砲を持っており、これが世界初の「鉄製」の大砲だったそうですね。
当時の大砲は「青銅製」というのが標準でした。
日本の製鉄技術は当時から世界一だったと言われていたらしいですから、鉄製で作れたのでしょう。
鉄製の強度を持ってすれば、カルバリン砲よりも火薬を更に増やして、飛距離も威力もカルバリン砲よりも上だったかもしれませんね。
ちなみにこの時豊臣家が使っていた「フランキ砲」は「長さ2.9m」「口径9cm」「射程距離・口径は不明」で、暴発の恐れがあったとされています。
武器の性能からしても差があったのですね。
カルバリン砲・・・・恐ろしいですね~。
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■カルバリン砲で変わってしまった豊臣家の運命とは?
このカルバリン砲の砲撃を目の当たりにした淀殿は、一気に和睦に傾いたとのこと・・・・。
そして「大阪城の堀を埋める」という条件を受け入れ、和睦。
これによって、難攻不落の要塞「大阪城」はその威力を失います。
豊臣秀吉が、秀頼を守るために授けたとされる大阪城・・・・こんな形で無力化されるとは・・・。
和睦して豊臣家は、安泰・・・・と思っていたかもしれませんが、徳川家康は和睦を守るつもり全くなし!!
和睦直後、すでに「近江国友」の鉄砲鍛冶集団に「大砲の製造」を命令していたと言われています。
大阪城の防御力を失った豊臣軍は「大阪夏の陣」で惨敗!!真田幸村も「集団戦法」で玉砕!
淀殿・豊臣秀頼・大蔵卿局・大野治長・大野治房たちは自刃。
秀頼の子・国松丸と結姫も、古田織部に匿われたが見つかって、国松丸は死罪!結姫は出家。
豊臣家は滅亡したのでした。
ちなみに古田織部は切腹させられました。
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「大阪冬の陣」において、徳川軍は「食糧不足」に陥って、馬やイルカなどを食べていたらしく、大阪城の近辺の土中から発掘されています。
しかも「冬の陣」というだけあって、季節は冬。
寒さに苦しんだ徳川軍は戦意を失いかけていました。
豊臣家も戦意を喪失しかけていたと言われていますが、食料は豊富だった上に、城内ということで、寒さも徳川軍ほどではなかったでしょう。
長期戦に持ち込んで、徳川家康が老衰死するまで粘っていたなら、天下を制覇することは出来なくても、領地を大幅に増やすことくらいは出来たかもしれません。
「カルバリン砲の1発の砲弾が、豊臣家の運命を変えた」
なんて「真田丸」のナレーションで言われていましたが、命中精度が高くなかっただろうから、正確には数十発の砲弾が豊臣家の運命を変えたのかもしれません。
しかし、もし万が一豊臣家が徳川家康を討ち果たし、大阪の陣で勝利していたとしても、「天下を制圧」出来ていたか?というと、若干疑問が残ります。
当時、徳川家は、全国の大名と婚姻関係を結び、更には豊臣家と関係の深い大名・・・「加藤清正」「福島正則」「浅野幸長」などなど、ほとんどが亡くなっていました。
もしも大阪の陣で豊臣家が勝利していたとしても、おそらくですが「天下制圧」は難しく、良くて「知行地増加」又は「全国的な戦乱に逆戻り」というところではないでしょうかね。
真田幸村には「成功報酬として知行地50万石」という条件が提示されていたらしいですが、これ・・・・ヤケクソになった豊臣家が提示した無茶な条件だった気がします。
真田幸村も信じてなかったんじゃないでしょうかね・・・。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・カルバリン砲はスペインの無敵艦隊を打ち破ったイギリスの大砲。
・射程距離は6300m。
・威力は侍女8名即死させるほど。
・カルバリン砲の乱射がなかったら、大阪冬の陣は豊臣家に有利だったかもしれない。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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