大阪の陣敗因は冬・夏とも淀殿?裏切りと内通者に怯え外堀埋め籠城?
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「大阪の陣」。
この「大阪の陣」を最期に「豊臣家」は滅亡。
豊臣家はどこでしくじったのか?
どうすれば徳川軍に勝利できたのでしょうか?
裏切り者・内通者に怯えすぎて、外堀を埋めたのが失敗?
淀殿が敗因だったのか?
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南無阿弥陀仏・・・。
■「大阪の陣」とは?
「大阪の陣」とは、1614年「大阪冬の陣」と1615年「大阪夏の陣」という二つをまとめた戦役の名前。
この「大阪の陣」に敗北した豊臣家は「大阪城」もろとも滅びました。
事の発端は豊臣家が全力で行ってきた事業「山城方広寺大仏殿の再建」を、徳川家に難癖を付けられて潰されてしまったこと。
それまでの間、徳川家は豊臣家に臣従を迫っていました。下克上を迫ったわけですね。元々徳川家は豊臣家の家来でしたから。
しかし豊臣家、特に淀殿は、徳川家への臣従を拒否。
豊臣家は、幕府の征夷大将軍(武家の棟梁)徳川家康の命令である「名古屋城などの築城の課役」に応じること無く、「江戸に人質をおく」ことも無く、徹底的に徳川家への臣従を拒否したのです。
臣従しない豊臣家を、危険だと判断した徳川家康は、方広寺の鐘に刻まれた文字に難癖を付けました。
「国家安康・君臣豊楽」。これは「家康」の文字を二つに引き裂いて呪いをかけた・「豊臣」を「君主として楽しむ」という意味だと難癖をつけて、豊臣家の悲願だった「方広寺大仏殿再建」を中止せよ!と命じたのです。
それに対して、豊臣家は家老「片桐且元」を通じて弁明。「呪いではない」と説明しましたが徳川家康は納得せず。
交渉に失敗した家老「片桐且元」を「裏切り者」と断じた豊臣家は、片桐且元を殺害しようとしましたが、彼は大阪城を脱出して、居城である摂津の「茨木城」に避難。
京都にいる家康の家来だった「板倉勝重」に援軍を求めました。
「家康とのパイプ役」だった片桐且元を殺害しようとしたこの騒動を、「徳川家」への宣戦布告と受け取った徳川家康は、大阪に向けて出陣!
1614年、「大阪冬の陣」が始まったわけです。
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■真田幸村が提案してボツになった戦略とは?
さて、大阪の陣「開幕戦」の冬の陣において、豊臣軍に加わったのが「真田信繁(幸村)」。
彼はこの大阪の陣について、一つの作戦を立案しました。
簡単に言ってしまえば、それは「先手必勝」。
大阪城は当時「最強の要塞」と言われていました。
その為、徳川家康は「豊臣軍は籠城して一歩も動かないだろう」と考えていました。
その思い込みを逆手に取って、真田幸村は、京都伏見城を先制攻撃して落城させることを提案。
そして、現在の京都府宇治市・宇治川に架かる「宇治橋」と、琵琶湖から流れる瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」を壊して、交通を遮断。
東西の往来を遮断してしまうという作戦でした。
特に「瀬田の唐橋」は明治まで瀬田川にかかる唯一の橋でした。
その為、豊臣軍に瀬田の唐橋を壊されて、瀬田川を掘りにして防戦されれば、徳川軍は大阪城に近づくためには「琵琶湖を渡る」か「南北へ迂回」しなくてはならなかったわけです。
当時から「瀬田の唐橋」は軍事の要衝とされていたらしいです。
「明智光秀」が本能寺の変を起こした際に、瀬田城主の「山岡景隆」は「瀬田の唐橋」を壊して、明智軍の進行を阻止。その為、明智光秀は安土城攻めに3日間遅れたと言われています。
他にも「承久の乱」「建武の戦い」で「瀬田の唐橋」は重要な拠点とされたとか・・。
真田幸村は、この「瀬田の唐橋」と「宇治橋」を壊してしまうことで、東国と西国の連絡を遮断して、西国の豊臣家とゆかりの深い大名衆に、味方につくようにと促そうとしたのでしょう。
この作戦を実行されていたら、大阪の陣は長期戦となり、徳川軍を裏切る大名も出てきたかもしれません。
例え失敗したとしても、最強の要塞・大阪城に逃げ込んで徹底的に籠城してしまえばいいだけのこと。
長期戦となると、家康の寿命が尽きることも考えられるでしょう。そうなると徳川軍を裏切るものは増えるものと思われます。
最終的にこの作戦は却下され、「大阪城籠城」の作戦が採用されました。
真田幸村の作戦が実行されていたらどうなっていたのか・・・・興味がありますが・・・残念ですね。
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■大阪「冬の陣」の敗因とは?
さて、大阪冬の陣が開戦。
戦力を比較してみると「豊臣軍9万ー徳川軍20万」だそうです。
大阪城には南に弱点があると言われています。大阪城は「惣構」と言われる「城下町をも城壁で囲む」形をした巨大な要塞。小田原城をモデルにしたと言われていますね。
大阪城南には、「天王寺」まで平坦な地形なので、そこに徳川軍が大量に投入されれば、いくら「惣構」でも防ぎ切ることは出来ないだろう、とされていました。
それに対して真田幸村は東西約180mという広大な「真田丸」という出丸を建築して対抗。
ちなみになぜ真田丸が強力だったのか?というと、惣構の城壁から突き出た形の「真田丸」。その真田丸を横から攻撃しようとすると、「惣構」の城壁と「真田丸」から「十字砲火」を浴びせることが出来たからではないでしょうかね。
季節は冬。しかも大阪城は家康の予想以上に難攻不落。
食料は欠乏し、冬の寒さで徳川軍はやる気喪失。
それに対して豊臣軍の兵糧は35万石あったと言われています。
1石は兵士1人の1年間のお米の消費量だとか・・・。9万の豊臣軍が籠城するには十分でしょう。
これではマズイ、と思った家康は豊臣軍と和睦を模索し始めますが、「豊臣軍」の提案した和睦条件は「知行地の増加」。
「知行地増加」なんて受け入れたら、家康は敗北を認めた事になりますので、和睦交渉は決裂。
家康は備前島から天守閣に向かって大砲を乱発。
当時徳川軍が保有していた大砲はオランダ・イギリスから購入した「カルバリン砲」という代物。
これを4門も持っていたと言います。
「カルバリン砲」とは、長さ4.8m・口径16.2cm・弾丸重量14.4kg。
「カルバリン砲」の射程距離は6300mもあったとか・・・。本当か?
更には、世界的にも珍しい「鉄製」の国産大砲も使用していたとか・・・。
それに対して豊臣軍の大砲は旧式の「フランキ砲」。
長さ2.9m・口径9cm・弾丸重量と射程距離は不明ですが「カルバリン砲」の足元にも及ばないでしょうし、度々暴発したとされています。
この「カルバリン砲」を天守閣に喰らった豊臣軍。淀殿の目の前で侍女が亡くなったと言われています。
その為、淀殿はビビってしまい、和睦を模索するようになったと言われています。
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豊臣軍がビビって和睦に動いたことで、家康は交渉しやすくなりました。
家康が出した主な条件は以下の通り。
・籠城の将兵・牢人は和睦に異議を唱えないこと。
・秀頼の知行地はこれまでと変わらないこと(65万石から増加もなければ減少もない)
・秀頼の母親・淀殿は江戸に人質とする必要がないこと。
・秀頼が大阪城を開城したいというのなら、望む場所へ国替えを許す。
・大野治長・織田有楽斎は、子供を江戸に人質として差し出すこと。
・(もう戦争する事はないという証として)大阪城二の丸と三の丸は堀ごと取り壊すこと。(二の丸とその外堀は豊臣軍の手で、三の丸とその外堀は徳川軍が壊すこと)
・秀頼は今後謀反を起こさないこと。
この「堀の埋め立て」が、家康の真の目的でした。
「堀さえ埋めてしまえば、大阪城は難攻不落ではなくなる」ということですね。
家康は息子・秀忠に堀の埋め立てを命令して二条城に帰還。
秀忠は「大阪城の堀の埋め立て」について、「豊臣軍の手で埋め立てる」という約束を無視して、徳川軍の手で堀を埋めてしまいます。
しかも、当初、埋めるという約束の堀は「惣堀」つまり「外堀」のみとされていたはずなのに、二の丸と三の丸の堀も本丸の堀も埋められてしまいます。(惣堀とはお城の外堀のこと)
抗議した豊臣軍に対して、家康は一言。
「秀忠は『惣堀』を『総掘』と勘違いして全ての堀を埋めようとしたのだろう。私から注意しておく」
しかし、堀はとっとと埋められてしまいます。
もっともこれは逸話でしかなく、歴史資料には堀の埋め立てで豊臣・徳川が揉めたという話はなく、全ての堀を埋めることが約束されていたとも言われています。
これで「大阪冬の陣」は終了したわけです。
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敗因は?
大阪冬の陣は「和睦」で終わっていますので、正確に言えば「敗因」ではないのですが、失敗点は2つあると思われます。
1つは「真田幸村の作戦を採用しなかったこと」
2つめは「ビビって和睦条件に『大阪城破却』を受け入れてしまったこと」
まずは1つ目「真田幸村の作戦を採用しなかった」
もしも真田幸村の作戦を採用していたとしたら、おそらく更なる長期戦となっていたでしょう。
その後、和睦するにしても、もっと豊臣軍に有利な和睦が出来ていたはず。
2つ目の失敗「大阪城破却を受け入れた」。
大河ドラマ「真田丸」で、堺雅人さんが言ってました「大阪城は最期の砦」。
その最期の砦を破却してしまったことで、豊臣軍は自身の翼を自分でもぎ取った事になりますからね。
つまりは「和睦交渉に完敗した」ということでしょう。
もしも淀殿が大砲にビビって「交渉に妥協していなかった」としたら、どうなっていたのでしょうか?
おそらくさらに長期戦となっていたでしょう。
しかも「大阪城の堀の埋め立て」に、「馬の骨」や「イルカの骨」が投げ込まれていたらしいですからね。徳川軍は食料の欠乏に悩まされていた事がわかっていますから、豊臣軍の方が粘り勝ち出来たかも・・・。
とはいえ、豊臣軍も、冬の陣最後には「士気が下がって兵士は投げやりな感じだった」と言いますから、これ以上長く戦うわけにもいかなかったのかもしれませんが・・・。
元々、籠城した豊臣軍には「敵の総大将・徳川家康・秀忠」を殺害する!つもりがあったのでしょうか?
援軍が期待できない状況での籠城の目的は「敵が兵糧に枯渇して撤退するのを待つ」ためだったのではないでしょうか。
つまり、徹底的に籠城して、徳川軍が撤退した隙に、豊臣軍にとって有利な条件で和睦。あわよくば知行地増加をもくろんでいたのでは?
そう考えれば、知行地を守りきった豊臣軍は「勝利した」とも言えなくもないでしょうけど・・・。
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■大阪「夏の陣」の敗因とは?
大阪冬の陣終結後の3ヶ月。
家康は駿府城へ帰還するが、一方で大砲の鋳造を命じていたらしく、最初から和睦を守るつもりはなかったみたいですね。
豊臣軍では、牢人たちが独自に徳川軍との開戦の準備を進めていたとか。
それに対して徳川家康は「豊臣の和睦条件違反」とみなし、3つの条件のうち一つを選べと通告。
・大阪城から大和国への国替え
・又は伊勢国への国替え
・大阪城内の牢人追放
しかし、豊臣には浪人たちを追放する財力も兵力もすでになかったと言われています。
その為、豊臣軍は3つ全ての条件を拒否。
大阪夏の陣が開戦します。
兵力は「豊臣軍5万ー徳川軍15万」
真田幸村は、豊臣秀頼自身の出陣を要請することで、自軍の士気をあげることを進言。
しかし、豊臣軍には、家康の策略で「牢人たちは裏切って豊臣秀頼を殺害しようとしている」と噂が広まったため、淀殿は秀頼の出陣を押しとどめたとか・・・。
やる気をなくした豊臣軍は、後藤又兵衛・薄田隼人・木村重成などが次々戦死。
窮地に陥った中で、真田幸村が作戦を立案。
真田幸村・毛利勝永などが天王寺・茶臼山などに布陣し、家康を守る敵各部隊を引き付けて守備戦に徹する。その間に明石全登のキリスト教徒部隊が、家康本陣に奇襲。
そして豊臣秀頼が天王寺まで出陣し、味方の士気を鼓舞する。というもの
しかし、秀頼の出陣は淀殿に押しとどめられて実現しません。
さらには、明石全登が家康本隊に近づく前に毛利勝永が開戦してしまったため、奇襲作戦は失敗。
真田幸村は3500人の部隊で家康軍に突撃するが、家康に逃げられ戦死。
その後大阪城は落城。
秀頼と淀殿は自刃したと言われています。
一説によると、真田幸村と秀頼は、島津家を頼って薩摩に逃れたとされていますが、現実的ではない気がします。
その後、秀頼と側室の子供である「国松」と「結姫」が家康に捕まり、国松は死罪。結姫は秀頼の正妻・千姫の養女となって出家。豊臣家は滅亡。
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敗因は?
敗因はいくつもあると思われますが、何よりも最大の敗因は「秀頼の出陣がなかったこと」ではないでしょうか。
総大将の秀頼が出陣しなかった、つまり温存策を採用してしまったことが敗因ではないでしょうかね。
ボスが何もしないのに、家来がやる気になんてなるはずありません。
その為、豊臣軍の士気・つまりモチベーションは結構低かったのではないでしょうか。
「牢人が裏切って秀頼を殺害しようとしている」という噂が、何よりも効いてしまったのでしょうけど、秀頼が出陣しないことには軍のモチベーションは上がらず、敗北して自刃に追い込まれる事は明らかでしたからね。
秀頼自らが出陣するべきだったのではないでしょうか。
大阪城の堀はすでに埋められているわけですから、「堀のない城に籠城」してもねぇ・・・・。
秀頼出陣に反対したのは淀殿と言われています。
まぁ、夏の陣で大野治長は、牢人に背中を刺されて負傷してます。
さらには冬の陣で、徳川軍の後の牛久藩主「山口重政」が大阪城に味方のふりをして潜入し、秀頼を暗殺しようとした・・・と言われています。実行はされなかったらしいですがね。
これでは「裏切り・内通者」を過度に恐れるのもわかります。
秀頼が暗殺されれば、淀殿はドン底ですからね。
ちなみに「山口重政」はこの戦争で、弟と長男を亡くしています。
冬の陣でビビって和睦条件で妥協したのも淀殿。
秀頼の出陣を押しとどめたのも淀殿、と言われています。
淀殿・・・・彼女が最大の敗因なのでしょうか?
具体的に言えば、淀殿が「牢人部隊の裏切り・内通者・暗殺をおそれて、積極策を取らなかったこと」。
ドラマや小説では、淀殿はプライドが高く、息子を溺愛する過保護な女として描かれてしまいますが、それが本当なのかどうかはわかりません。
もしかしたら、秀頼自身が出陣を嫌がったのかもしれませんし・・・・。
淀殿が敗因・・・・とは一概には言えないかもしれません。
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■豊臣が勝利しても良いことなかった?
拙僧の勝手な妄想ですので、どうかご了承くださいませ(-_-;)
もしも豊臣軍が、大阪の陣で勝利し、全国の大名を味方につけて徳川幕府が潰れていたとしたらどうなっていたでしょうか?
徳川幕府が実現した「江戸時代250年近くの平和」はなかったことになるでしょう。
江戸幕府の平和は全て、徳川家康・秀忠が、「幕藩体制」を確立したおかげでしょう。
果たして、豊臣秀頼が天下を平定したとして、250年ものあいだ平和を維持できたでしょうか?
おそらく、秀頼にそれだけの政治能力はなかったでしょう。
江戸時代の長い平和は、世界的に見ても歴史上珍しいのだそうです。
それを考えると、家康の政治能力は、世界トップクラスということになるのではないでしょうか。
もちろん、外国からの侵略がなかったことも理由に挙げられるでしょうけども・・・。
ということは、豊臣秀頼が政治を行っていたら、全国の大名を掌握しきれずに内乱勃発ということになるのではないでしょうか。
特に「伊達政宗」は、噂によると、スペイン軍を日本に呼び寄せて、連合して天下を取ろうとしたとも言われているほどの野心家。
日本最初の「売国奴」?なんてことを国士舘大学の「倉山満」先生が言ってました。
秀頼におとなしく従うとは思えません。
おそらくですが、豊臣家が大阪の陣で勝利していたら、戦国時代は更に長く続いていたことでしょう。
歴史に「もし」はない。
と言われていますが、後世の人間の目からみると、歴史は常に最善の道を辿っているのかもしれませんね。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・大阪の陣で豊臣家は滅亡。
・大阪冬の陣の敗因は「真田幸村の作戦不採用」「大阪城破却」
・夏の陣の敗因は「秀頼の温存策採用」
・淀殿自身が敗因・・・とは断定し難いのではないか・・。
・豊臣家が大阪の陣で勝利していたとしても、良いことなかったのではないか?
以上となります。
この記事には多分に「拙僧の推測」が混じっておりますので、気に入らないことがあるかもしれませんが、どうか勘弁して下さいませ(T_T)
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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歴史は常に最善の道を辿っている・・・そうかもしれませんね。
納得します。
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拙僧の愚見にお言葉をいただきましてありがとうございます!
またぜひ、当「生臭寺院」へお越しくださいませ。
少しでもごゆっくりいただけましたら幸いです。
ありがとうございました。