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今川義元の子孫は東京に?愛用の刀は桶狭間で信長に奪われ居城駿府へ


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大河ドラマ「女城主直虎」で「春風亭昇太」さんが演じている今川義元

子孫は東京にいる?

今川義元が愛用していたとされる因縁の刀「宗三左文字」

織田信長に桶狭間で奪い取られて、今川義元の居城だった駿府城に??

今、「宗三左文字」はどこにあるのか?


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「生臭寺院」へようこそ。

拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。

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「慰安婦少女像再設置への日本の報復について、アメリカや海外の反応は?」の記事はコチラ

■目次

今川義元とは

子孫は今どこに?

義元の愛刀・左文字の因縁と伝説

今川義元の居城・駿府城への徳川家康の想いとは?

本日のまとめ

よろしければお付き合いくださいませ。

南無阿弥陀仏・・・。

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■今川義元とは

お歯黒をして、おじゃる丸みたいな格好をしたひ弱なお坊ちゃまみたいな武将。

桶狭間の戦いで、織田信長にあっけなく敗れ去った無能な武将・・・・今川義元

というのが一般的な今川義元のイメージみたいですが、どうもそうではないみたいですよ。

今川義元・・・幼名・芳菊丸

今川氏親の5男として産まれ、4歳の頃に天才軍師・太原崇孚雪斎とともに京都に修行へ。

出家して梅岳承芳(ばいがくしょうほう、又は、せんがくしょうほう)と名乗る。

今川家の当主で、兄の氏輝、同じく兄の彦五郎が急死したため、今川家に戻るが、異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)と家督争い(花倉の乱)を戦って勝利し、今川家当主となる。

その後、駿河・遠江・三河の3カ国を領有し、今川家の最盛期を築き上げた・・・・。


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1560年、桶狭間にて、織田信長に奇襲を受けて敗死。

今川義元。一説によれば、4万人の軍隊を率いていたにも関わらず、わずか3千人の織田軍に敗北した・・・・そうです。

「終わり悪けりゃ全部悪い」みたいな最期を遂げてしまったため、後世ではそれほど評価は高くないみたいですが、今川家の最盛期を築き上げたその手腕、そして同時代の名将・朝倉宗滴から、「武田信玄」「上杉謙信」「毛利元就」などと同列に評価されている点からしても、結構な名将だったのではないでしょうか。

織田信長は、義元のことを結構尊敬していたと言われています。

彼は当時、討ち取ったらみんなの前に晒すことが当たり前だった時代に、今川義元の首を今川家の家臣に丁重に返してあげたと言われてます。

もちろんただで返したわけではなく、お城1つと交換したわけですが、義元に対しての織田信長なりの敬意の表れだったのではないでしょうか。

織田信長は敵だった「浅井長政」の首を、お正月にみんなの前に晒したみたいですからね。

まぁ、一説には「経緯を表して頭蓋骨に金箔を貼った」なんて言われてますが、そんなことするくらいならお墓に入れてあげればいいのに・・・。

この点からしても信長は義元を評価していたのでは?

義元は足が短くて馬に乗れなかった・・・・というのも創作だったようで、歴史的資料に、「桶狭間で馬に乗って逃げた」と書かれているみたいですね。

間抜けな男ってことはないんじゃないでしょうか。

なんといっても、今川義元のお隣さんは、名将の代名詞みたいな「武田信玄」と生涯無敗と言われている「北条氏康」さん、更には「織田信長」ですからね。

その3人と渡り合ったということは、かなりのやり手だったんじゃないでしょうか。

徳川家康と並んで、「海道一の弓取り」なんて言われていたみたいですし。

織田信長も、今川義元のことを尊敬していた・・・・と言われているそうです。

その証拠に、織田信長は今川義元の愛刀を大切にしていたと言われてます。


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■子孫は今どこに?

さて、そんな今川義元の子孫は、今どこにいらっしゃるのでしょうか?

そもそも、今川義元の血筋は、現在でも続いているのでしょうか?

今川義元には「氏真(うじざね)」という名前の息子がいました。

どうやらかなり出来の悪い息子だったらしく、今川義元が亡くなった9年後に領地を全て失い、妻の実家である「北条家」にご厄介になっていたみたいですね。

その後、徳川家康の家来になって、徳川幕府の旗本として、家名を守っていたと言われています。

さて、その今川義元の子孫はどこにいるのでしょうか?

調査してみたところ、意外なところに情報が!!

今川義元の最期の地である桶狭間。現在の名古屋市緑区桶狭間。

そこには今「慈雲寺」というお寺があるそうなのですが、そこでは毎年「桶狭間古戦場まつり」というものが行われているそうなのですが、そこに、今川義元の子孫からお供え物が届いたのだそうです。

その子孫さんはどうやら東京から、このお供え物を送ったんだとか。

一般人の方のようなので、詳しい名前や住所は定かではありませんが、毎年この「桶狭間古戦場まつり」で、お供えとお手紙を欠かさないとのこと。

でも、その今川義元の子孫の方。

織田信長の子孫である「織田信成」さんのこと・・・・どう思っているのでしょうね(´・ω・`)

わだかまりとか残ってないといいんですけど・・・。


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■義元の愛刀・左文字の因縁と伝説

今川義元・・・・彼が愛用した刀は現存しています。

その名前は「義元左文字」。

又は「宗三左文字」とも呼ばれていました。

この刀、ある因縁というか、言い伝えがあるみたいです。

「天下を狙う者・天下を取る者が、左文字を手にする」

この「左文字」という刀、元々は「三好政長」という人物が所有していた刀。

「三好政長」は出家して「宗三(そうざ)」と名乗ったらしいので「宗三左文字」又は「三好左文字」とも呼ばれています。

この三好政長という人、かなりの野心家だったと言われているみたいです。

その三好政長が、この「左文字」を武田信玄の父・武田信虎にプレゼント。

更に、武田信虎は「左文字」を娘の嫁入りに際して、婿の今川義元にプレゼントしました。

三好政長・武田信虎・今川義元、この3名は、天下を取ることは叶いませんでしたが、野心家として有名です。

今川義元は1560年に織田信長に敗北し、その時身につけていた「左文字」を信長に奪われてしまいました。

織田信長はこの「左文字」を常に身辺に起き、義元を倒した記念に、刀に自分の名前と「永禄三年五月十九日に今川義元を倒し、彼が持っていた刀にこれを刻む」と彫り込んだみたいです。

信長・・・・・今川義元に勝利したのがよほど嬉しかったんでしょうね。

こんな文字を彫り込んで、本能寺の変でも手元に置いていたと言われています。

信長が亡くなった後、この「左文字」は豊臣秀吉の手に渡ります。

更に、秀吉の死後には息子の秀頼へ。

次には秀頼からプレゼントされて、徳川家康へと渡りました。


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この後、左文字は桶狭間の戦いから実に40年もの歳月を経た後に、今川義元の居城駿府城へ戻ることになったんですね。

家康は将軍を辞めた後、江戸城から駿府城へと移り住んでいますから、その時左文字も一緒に駿府城へ運ばれていたと思われます。

徳川家康は、この「左文字」を豊臣秀頼を滅ぼした大阪の陣で、腰に帯びていましたから、駿府城に置かれていたことは間違いないでしょう。

家康から、息子の秀忠へ、そして秀忠は形見として、「不動国行」「江雪正宗」という刀と一緒に、息子の家光へと譲りました。

明治天皇が織田信長に神号を贈ったことで創建された京都市北区の神社「建勲(けんくん)神社」に、明治2年に「左文字」が寄進されたと言われています。

現在でも「左文字」は建勲神社に保管され、重要文化財として指定されています。

左文字・・・・・・・なんだかこれを持っていた人間は、徳川家康以外、尽く滅びている気がしますが、とんでもない代物・・・・ってことはないでしょうねぇ(´・ω・`)


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■今川義元の居城・駿府城への徳川家康の想いとは?

今川義元の居城といえば、静岡の駿府城。

とっても大きな城だったらしいですね。

さて、徳川家康・・・・この駿府城に特別な想いを抱いていたみたいです。

駿府城は徳川家康の隠居城としても有名です。

家康は1605年に「征夷大将軍」の位を息子の秀忠へ譲った後、江戸城から駿府城へ移り住みました。

どうして家康は駿府城を選んだのでしょうか?

もちろん地の利を活かしたため、という理由もあるでしょう。

しかし、家康にとって駿府城はそれほどいい思い出があるとは言えない土地なのでは?

何と言っても、彼は苦労した人質時代を駿府城で過ごしているはず・・・・。

徳川家康は幼いころ、人質として駿府城で今川義元に監視されて育ったそうですから。


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ただ、異説もあります。

実は駿府城での幼いころの家康の生活は、非常に穏やかなものだった・・・・と。

家康は、実は今川義元からかなり将来を期待されていたと言われています。

自分の師でもある太原崇孚雪斎による英才教育を受けさせ、元服・つまり成人式の際に、今川義元は家康に立派な鎧をプレゼントしています。

今川義元は家康にかなり目をかけて育てたみたいです。

そんな家康が、駿府城で苦労させられるでしょうか?

もしかしたら、家康が駿府城を隠居城にしたのは、幼いころの穏やかな思い出を忘れられなかったため・・・・なのかもしれません。

今川義元・・・・・・・徳川家康に目をかけた彼の人物鑑定は当たっていました。

何と言っても家康は天下を取りましたからね。

家康はある日、義元の目の前で、庭先にて立ち小便をしたとか。

その時、義元は、家康を叱るどころか

「肝に毛の生えた子だ」

と言ってかえって褒めそやしたと言われています。

更には自分の姪である「瀬名」を家康の妻にしていますしね。

家康・・・・義元からかなり可愛がられていたんじゃないでしょうか。

それなのに人質として苦労した・・・・と言ったのは、おそらくですが後に家康が今川家を裏切って独立した際の「正当性」を主張するためのカバーストーリーだったのでしょう。

家康・・・・・義元のことをどう思っていたのでしょう。

申し訳ない・・・・と思っていたのかも・・・・。

それにしても、太原崇孚雪斎って・・・・・もしかして結構すごい人?

今川義元と徳川家康・・・・二人の歴史的大物を育てるなんて・・・・かなりの名指導者だったんじゃないでしょうかね(`・ω・´)


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■本日のまとめ

本日の記事をまとめますと

・今川義元は結構な名将だったらしい。

・義元の子孫は現在東京在住。

・愛刀の「左文字」は、現在京都「建勲神社」にある。

・家康は今川義元から、かなり大切にされた。

以上となります。

本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

またよろしければお付き合いくださいませ。

それではこの辺で失礼致します。

南無阿弥陀仏・・・。

よろしければコチラの記事も合わせてお読み下さいませ。

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