徳川家康の正室瀬名姫と井伊直虎は親友?家臣井伊直政は家康の愛人?
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徳川家康の妻「瀬名姫」と「井伊直虎」は親友?
瀬名姫は家康を恨んでいた?
井伊直虎の養子「井伊直政」
常識はずれの出世の速さの理由は、家康の愛人だったから?
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■瀬名姫と井伊直虎の関係
2017年放送中の大河ドラマ「おんな城主直虎」に登場する人物「瀬名姫」と「井伊直虎」。
ドラマの中では二人は親友として描かれていますが、これは本当なのでしょうか?
瀬名姫は言わずと知れた「徳川家康」の正室。つまり正妻。
対して「井伊直虎」はと言うと「徳川家康」の家来「徳川四天王」の1人「井伊直政」の養母。
徳川家康を通じて二人には確かに接点があるようですが、 史実でも2人は本当に親友同士だったのでしょうか?
一説によると2人は実は同じ一族だったようですね。
瀬名姫の母は、「井伊直平」の娘。
そして「直虎」の父「井伊直盛」は「井伊直平」の孫。
非常に遠縁ではありますが、2人の接点は一応こういった形で存在しているんですね。
ただ、ドラマのように頻繁に手紙をやり取り親友同士では、おそらくなかったと思います。
とはいえ、直虎が後見人を務めた「井伊直政」・・・・1574年に彼を徳川家康に臣従させたときに瀬名姫の口添えはあったのかもしれません。
井伊直虎は、生涯、井伊谷からほとんど出なかったと言われていますからね。
親友と呼べるような間柄ではなかったのではないでしょうか。
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■瀬名姫の最期
瀬名姫最後とはどのようなものだったんでしょうか?
通説では謀反を疑われて「織田信長」 の命令で、自身の息子・徳川家康の長男「信康」とともに、家康によって殺害させられたと言われていました。
ですが最近では、別の説が有力だそうですね。
瀬名姫と信康の殺害は、織田信長の命令だったわけではなく家康の独断だったとのこと。
瀬名姫は敵である武田勝頼と密かに連絡を取っており、息子の信康の父に対して謀反を企てていたので、家康はやむを得ず2人を殺害したのだとか。
瀬名姫はもともと、家康に対して相当な恨みを抱いておりました。
理由は自分の伯父である今川義元を殺害した織田信長と家康が同盟を結んだため。
そしてもう一つの理由が、今川義元がなくなった途端に、家康が今川を裏切って岡崎城で独立してしまったこと。
この独立のせいで、瀬名姫は今川に人質として捕らわれ、家康の裏切りを謝罪するため、瀬名姫の父親は自ら命を絶っているのです。
さらにはその後、瀬名姫は家康から遠ざけられてしまい、家康の本拠岡崎城の郊外にある築山という所に、幽閉同然の生活を送らされることになります。
こういった家康への恨みがあったために、最愛の息子とともに謀反を企てたのでしょう。
1579年、瀬名姫の謀反の計画は露呈し、 家康の手で殺害されることとなってしまうのです。
なんというか・・・・幸薄い一生だったのですね。
■実は直政は家康の愛人?
井伊直虎が後見人を務めて、後に徳川四天王の一人に数えられる家康の家来「井伊直政」。
彼の出世は驚くほど早かったということで有名です。
1590年の小田原征伐の結果、井伊直政は譜代ではないにもかかわらず、 徳川家の中で最大の12万石という領地を与えられています。
その後も順調に出世を重ね、最終的に彦根30万石という徳川家最大の量家を得るに至りました。
いいなおまさはなぜこれほどまでに徳川家康に重宝されたのでしょう。
彼の外交手腕と戦の強さも当然その理由なのでしょうが、それ以外に何か理由があったのでしょうか?
一説によると直政は家康の長男信康と顔立ちが似ていたため非常に愛されたと言われています。
ただそれ以外にも理由があるのではないでしょうか。
例えば愛人だったとか。
戦国時代に同性での愛人関係なんて、 それほど珍しくありませんよね。
例えば織田信長は家来の前田利家と愛人関係にあったと言います。
伊達政宗も 愛人であった男性の家来に対して、 嫉妬に狂った手紙を送っていることで有名です。
もしかしたら若く美男子と噂だった井伊直政も家康の愛人だったのかも。
当時は大将であっても、戦場にそう簡単に女性を連れて行くことは出来なかったでしょうから、同性愛が流行るのも無理はなかったのでしょうけども・・・・。
とはいえ家康にその気はなかったともいわれていますが・・・・。秀吉も同性に対してはまるで興味がなかったそうですし。
色仕掛けで領地をもらった・・・・ なんて考えたくないですよね(T_T)
実力で信頼と領地を勝ち取ったと思いたいものです。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・瀬名姫と井伊直虎は、おそらく「親友」というわけではなかっただろう。
・瀬名姫は、家康に冷遇された挙句、悲劇的な最期を迎えた。
・井伊直政の凄まじく早い出世は、もしかしたら家康の愛人だったからかも・・・。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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