小野政次をWikipedia風に解説!家系図に記された子孫はどこに?

小野政次

大河ドラマ「おんな城主直虎」で俳優「高橋一生」さんが演じる「小野政次」

彼の素性や経歴・動向をWikipedia風にまとめてみました。

小野政次はドラマの様に「裏切り者」?史実では「極悪人」だったのか?


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■目次

小野政次をWikipedia風に解説

史実では極悪人?

子孫はどこに?

本日のまとめ

よろしければお付き合いくださいませ。

南無阿弥陀仏・・・。

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■小野政次をWikipedia風に解説

小野政次

遠江国の井伊谷出身の人物で、井伊家家老「小野政直」の嫡男。

弟に「小野朝直」。

1554年に父・小野政直が病死したため、家督を相続し、父が務めた「今川家の目付(監視役)」の任務も継承する。

父の小野政直は生前、井伊家の一族である「井伊直満」を死に至らしめたと歴史に名前が残っており、直満の息子「井伊直親」はこの件がきっかけで主家の今川家から命を狙われてしまい、信濃(現・長野県)南部に約10年の間、亡命している。

大河「おんな城主直虎」では、井伊直親と小野政次は幼馴染で親友として描かれているが、現実的には父同士の確執のため、不仲であったと思われる。

実際、直親が亡命先から帰還した際に、彼は政次と距離をおくため、祝田という遠隔地の屋敷に移っている。

1560年に井伊家の主君筋である今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に敗死。

井伊家当主だった「井伊直盛」は戦死し、井伊直親が当主となり、小野政次の領地横領・井伊家乗っ取りを恐れた井伊直盛は死の間際に、家臣の「中野直由」に直親後見役を命じたといわれている。

この戦いで、政次は弟の「小野朝直」を失っている。

直後に、勢力拡大が著しかった井伊家の有力家来である「奥山朝利」を暗殺。

大河ドラマでは、正当防衛のような扱いになっていたが、実際には、政次は常に井伊家を乗っ取ろうと策略を張り巡らしていたとされているので、事実暗殺したのだろう。

1562年、井伊直親は今川家から徳川家康への寝返りを画策!

しかしこの計画は露見したため、政次は今川家に密告!

今川家当主「今川氏真」は直親に対して、居城「駿府城」への出頭と申し開きを指示。

直親は駿府へ向かう途中の掛川で、今川家重臣・掛川城城主「朝比奈泰朝」に殺害される。

その際に、政次は井伊家次期当主である「虎松(後の井伊直政)」の殺害も企てるが、井伊直虎の母の兄で「今川家の一族」でもあった新野親矩に阻止されて失敗。

1564年には後見役の中野直由が戦死したため、「次郎法師」こと「井伊直虎」が井伊家当主に就任した。


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今川家滅亡と小野政次の破滅

その後、今川家は滅亡の一途を辿ることとなり、彼も破滅に向かっていく。

今川家と政略結婚で結ばれていた同盟国「甲斐の武田信玄」が動き出す。

1567年、武田信玄は自らの嫡男である「武田義信」を謀反の疑いで幽閉。

武田義信の妻は、今川義元の娘で氏真の妹。

義信を救うため、今川氏真は「甲斐国への塩の輸出を停止させる」という外交手段に打って出ている。

しかし、その甲斐なく、武田義信は死亡。彼の妻は駿河に戻され、同盟関係は解消される。

その後、今川家は同盟国「相模の北条氏康」と協力して信玄に対抗しようとするが、1568年に武田信玄は徳川家康と協力して今川領・駿河と遠江に侵攻。

その武田の侵攻に際して、今川氏真は政次に対して「虎松を殺害して井伊家を乗っ取るように」と命令。

更には「井伊家の軍を率いて出陣するように」とも命令。

彼は命令に従って虎松を殺害しようとするが、井伊直虎が虎松を保護し、やむを得ず井伊谷城を奪取。

これに対して徳川家康は、今川家から寝返っていた「鈴木重時」「菅沼忠久」「近藤康用」ら「井伊谷三人衆」を出陣させ、井伊谷城を小野政次から奪い返す。

井伊谷を乗っ取って一ヶ月後の1569年5月3日に小野政次は亡くなる。

今川氏真は小野政次が亡くなった直後の5月17日、最期の砦だった掛川城を徳川家康に明け渡して、妻の実家である北条家を頼り、今川家は滅亡。

「小野政次の最期は悲惨?子供達の最期も悲惨!」の記事はコチラ

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■史実では極悪人?

大河ドラマ「おんな城主直虎」では、小野政次は井伊直親や井伊直虎と幼馴染で、非常に仲の良い人物として描かれています。

実際に、3人は同年代だったため幼馴染だったのでしょう。

しかし、小野家は今川家からの監視役という任務を帯びていたため、井伊家の支配権を井伊に好き勝手させるわけにはいかなかったと思われます。

その為、小野政次は父・小野政直同様、井伊家の乗っ取りを常に狙っていたと思われます。

おそらくそれは今川家からの命令だったのでしょう。

その立場の違いから、直親や直虎と政次の関係は険悪だったことが予想されます。

政次は井伊家の言い伝えによると「奸臣」「悪臣」として名前が残っています。

実際、井伊家の重臣「奥山朝利」の暗殺を行い、「虎松」の殺害を企てていることからしても、それは事実なのでしょう。

ただ、それは「今川家の家来」というもう1つの重責から来るものだったとすると、一概に悪人とは言えないかも・・・・。

その証拠になるかどうかはわかりませんが、政次の評判はよくありませんが、小野家の子孫は、井伊家と長い縁があります。


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■子孫はどこに?

小野政次の子孫はどうなったのか?

政次には2名の男児がいたとされていますが、政次が亡くなった1月後に亡くなっています。

直系の子孫と言える存在は家系図からいなくなりましたが、彼の家系図を繋げた人物が一人います。

それは桶狭間の戦いで戦死した政次の弟「朝直」の息子「亥之助」。

彼は後に名前を「小野朝之」と改めて、徳川家康の小姓を務め、更には虎松こと井伊直政の家来として数々の戦場をともにする忠臣となります。

朝之の子孫はその後、井伊家が治める「彦根藩」の支藩の家老として、長く井伊家に仕えることとなったのです。

小野政次・・・大河ドラマ「おんな城主直虎」では、直虎に想いを寄せながらも、裏切り者と罵られて、なんとか「井伊家」と直虎を守ろうとする人物として描かれています。

演じるのは名優「高橋一生」さんということで、影のある人物として表現されてますね。

歴史上でも、小野政次・・・・結構いいやつ!であってほしいとは思いますが・・・・むずかしいでかもしれません。

「ドラマで小野政次と井伊直虎の急接近はあるか?」の記事はコチラ

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■本日のまとめ

本日の記事をまとめますと

・小野政次は史実では、井伊家を乗っ取ろうとした「悪臣」

・1569年に小野政次は亡くなった。

・実際には悪人ではないかも・・・・。

・子孫は、甥の朝之の子孫が続き、井伊家に長く仕えた。

以上となります。

本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

またよろしければお付き合いくださいませ。

それではこの辺で失礼致します。

南無阿弥陀仏・・・。

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