松平元康の瀬名姫人質交換のその後に唖然!家系図からわかる徳川改名の狙い
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妻・瀬名姫を人質交換で取り戻した松平元康。
しかし、この人質交換には、続きがあった・・・。
なんと交換された鵜殿兄弟と瀬名姫はその後・・・・。
そして、松平元康が「徳川家康」と名前を改めたその理由がすごかった!!
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拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■「瀬名姫人質交換」・・「瀬名姫」のその後
「瀬名姫人質交換」とは?
1560年に起こった「桶狭間の戦い」。
当時、今川義元は、下手をしたら日本一の勢力を誇る大大名でした。
対するは小国尾張の織田信長。
戦力差は歴然としており、一説には「今川4万 VS 織田3千」とも言われています。
しかし、その戦いで織田信長は奇跡的に勝利。
それまで三河の大名であるはずが、人質として今川義元の本拠地・駿府城で生活していた「松平元康」は、このどさくさ紛れに故郷の岡崎城に帰城。
主人であった今川家に反旗を翻して、義元の仇である織田信長と同盟。
今川家の城を次から次へと攻め落としていきました。
そこで危機に陥ったのが、松平元康の妻「瀬名姫」と子供「信康」「亀姫」の3人。
瀬名姫たちは裏切り者・松平元康の家族であるため、見せしめに殺害されそうになりました。
しかし、その時、松平元康は今川義元の甥である「鵜殿氏長」「鵜殿氏次」兄弟を人質にとり、「人質交換」という形で「瀬名姫」達を救出。
これで万事めでたしめでたし・・・かと思ったら、その後、「瀬名姫」や息子の「信康」には悲劇が待っていたのです。
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「瀬名姫」「信康」のその後
瀬名姫と信康は、人質交換で岡崎城へ引き取られた後、お城には入れてもらえず、岡崎城近くの「築山」という地に幽閉同然な生活をさせられます。
なぜなのか?
理由は、彼女が「今川家の血縁者」だったから。
瀬名姫は「今川義元の姪」であるという説があり、そのため松平元康の家来たちからは「敵の一族」とみなされていたのです。
その為、松平元康も妻として近くにおいておくことができなかったのです。
これが瀬名姫の元康への憎しみを増大させました。
更には、瀬名姫は父親を元康の裏切りで亡くしてしまっているのです。
瀬名姫の父「関口親永」は、桶狭間の戦いの後、松平元康が裏切った際に、娘の瀬名姫を守るために身代わりとなって切腹し、今川氏真に娘婿の裏切りを謝罪していたのでした。
その為、瀬名姫は家康を相当に憎んでいたとも言われています。
それが原因なのか・・・瀬名姫は息子の信康と共謀して、夫の宿敵であった武田勝頼と密約を交わして、夫・松平元康(この頃は徳川家康と改名していた)を殺害しようと企てたのでした。
しかし、この企みは露見してしまいます。
そして、徳川家康は泣く泣く妻の瀬名姫を殺害し、長男の信康に切腹をさせたのでした。
家康はこの妻子殺害を生涯悔やみ続けたと言われています。
一説によると、織田信長が瀬名姫と信康を殺害するように、家康に命令したと言われていますが、最近ではこの説は否定されているらしく、家康が自ら2人を殺害したというのが定説になりつつあるようです。
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■「人質交換」に使われた「鵜殿兄弟」のその後
「瀬名姫人質交換」に利用された今川家の家臣「鵜殿長照」の息子たち「氏長」「氏次」兄弟。
この2人のその後はどうなったのでしょうか?
彼らは、上ノ郷城という城を守備していた時に松平元康に攻められて生け捕られ、「瀬名姫人質交換」に利用されました。
瀬名姫と交換された「氏長」「氏次」は、その後も今川家に仕えて「遠江国」の「二俣城」を守備しましたが、1568年に家康の侵攻を受けて降伏してしまいます。
その後、2人は徳川家康に仕えることとなるのです。
兄の氏長は、姉川の戦いや長篠の戦い、小田原征伐などの著名な戦争に従軍し、結局、最終的には1700石の領地をもらって徳川家の旗本となって仕え続けるのです。
弟の氏次はというと、同じように徳川家康に仕えるのですが、1600年に起こった「関ヶ原の戦い」の前哨戦「伏見城の戦い」にて伏見城守備を任されます。
城代だった「鳥居元忠」と一緒に伏見城を守備しますが、「宇喜多秀家」「島津義弘」などの猛将の攻撃を受け続けて、最終的には戦死してしまいます。
2人は元々、大大名・今川家の一族であったにも関わらず、桶狭間の戦いで人生が狂い、その後はあまり目立った人生をおくれなかったようです。
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■家系図からわかる「徳川家康」への改名の狙い
松平元康・・・・なぜ彼は名前を徳川家康と改名したのでしょうか?
実は松平家の家系図に記された、彼の複雑な立場が理由なのです。
彼が名乗っていた松平。家系図をみると、幾つもの家に分家しています。それも半端な数ではありません。
この松平氏は、三河国の豪族の名前なのですが、実は松平を名乗る家はたくさんあったのです。
松平元康の時代には、元康が産まれた松平宗家「安祥松平家」の他にも「竹谷松平家」「大草松平家」「長沢松平家」「桜井松平家」などなど、「十八松平」と呼ばれ、実に18もの「松平家」が存在していたのです。
しかも同じ松平家同士でも、三河国内では権力争いを繰り返し、元康は苦労させられました。
その為、元康は、朝廷に訴え出て、松平の名前を「徳川」と改姓する許可をもらいます。
この改姓の狙いはなんだったのか・・・。
元康は自身の苗字を「徳川」へと変えることで、他の「十八松平家」より、格式・家柄が上、ということをはっきりさせようとしたみたいです。
朝廷ではこの時、「徳川」の姓を許すのは、松平家全員に対してではなく、松平元康一人だけに「徳川」と名乗ることを許可したと言われています。
徳川家康となることで、特別な存在となり、他の松平一族を支配しようとしたのでしょう。
その後、家康は、朝廷から許しを貰ってか貰わずにかはわかりませんが息子「秀忠」と後年に産まれた「尾張・義直」「紀伊・頼宣」「水戸・頼房」の3人の息子にも徳川姓を名乗らせていますが、他の息子たちには、生涯「松平」を名乗らせました。
秀忠は世継ぎであり特別。3人兄弟は後年産まれた可愛い子どもたちだったので、特別な扱いをしたのでしょう。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・瀬名姫人質交換の後、瀬名姫と息子・信康は家康によって死に至っている。
・鵜殿長照の2人の息子は敵だった徳川家康に仕えている。
・松平元康は、多数ある松平家を支配するために「徳川」と名前を改めた。
・徳川を名乗れた家康の息子は「秀忠」「尾張・義直」「紀伊・頼宣」「水戸・頼房」の4人のみ。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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