真田幸村は最後は鹿児島で家族と平穏な余生を送った?伝説は本当か?
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人気の大河ドラマ「真田丸」
真田幸村は大阪夏の陣で死なず、実は鹿児島で生き延びていた?
もしかして、平穏な最期を迎えたってこと?きりちゃんと一緒に?
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■大河ドラマ「真田丸」最終回
真田十勇士を前にして、真田幸村は命を惜しんで生き残れと激励!!
「霧隠才蔵」を演じた「博多華丸」さんはそれに感動していましたね。
裏切り者の「大角与左衛門」は、幸村の詰問を受けて串で腹を刺し重傷。
真田幸村は、最期の軍議を豊臣秀頼の前で開き、天王寺で毛利勝永と真田幸村で敵を引きつけると説明。
その後に、豊臣秀頼自らが出馬することで、味方のやる気を奮い立たせて決戦に挑もうという作戦。
軍議の後、幸村は淀殿に対して、作戦が失敗したら、千姫を父・徳川秀忠のところに送り届けて、和睦を結んでほしいと頼む。
淀殿もそれを承知。
心置きなく死地に向かうことができると覚悟を決めた幸村。
自らの一生を鎧を来ながら振り返っていた。
家康は秀頼の出陣を恐れていた。
なぜなら、大阪城を囲んでいる諸将は、元々豊臣家に大きな恩があるものたちばかり。
裏切りまではいかなくても、秀頼の出陣は徳川軍のやる気を落とすことに繋がるだろう。
そう考えた家康は、作戦を立案。
「真田幸村の裏切り」という噂を広めた。
いつまで待っても秀頼の出陣がないことを不思議に思った大野治長は大阪城内へ。
その間、毛利勝永と真田幸村は、徳川軍の弱点を議論。
徳川軍は戦闘経験が浅い武将ばかり、そのため、毛利勝永隊と真田幸村隊で家康の陣に切り込めば勝てると断言。
すると、徳川軍の攻撃が始まってしまい、真田・毛利が協力して突撃する作戦が潰れてしまった。
大野治長が、大阪城内に行ってみると、大蔵卿局が出陣しようとする秀頼を必死にとどめていた。
大蔵卿局は真田幸村裏切りの噂を真に受けて、秀頼の命を守ろうとしていたのだ。
毛利勝永はその時奮戦!!真田信之の二人の息子が率いる真田隊も壊滅していた。
真田幸村は息子の大助に、秀頼の出馬を促してこいと指示。
そして、真田幸村は、最期の突撃へ。
幸村は3500の兵を率いて家康の本陣を目指した・・・・。
目指すは家康の首ただ一つ。
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■真田幸村の最期の突撃
幸村の突撃・・・・結果として、家康は後方に退き、12キロも逃げたと言われています。
真田幸村隊は、家康の孫・松平忠直に壊滅させられてしまい、家康を殺害することに失敗。
安居神社で休息していたところを松平忠直の家来に殺害されてしまいます。
徳川秀忠は、関ヶ原の戦いに遅刻した「第二次上田合戦」でのことで幸村に怨みを抱いており、幸村の首が見たいと言ったそうですが、家康はそれを拒否!
浪人の首なんぞ見たくないから犬にでもくれてやれ。と言ったとか。
幸村の首は、諸将からその武運にあやかりたいとして、髪の毛を切り取られまくって、最期にはボロボロになっていたそうです。
当時、武人の髪や血痕には「加護」の効果があると信じられていたらしいですね。
関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いで亡くなった家康の家来「鳥居元忠」の血を吸った床が「養源院」や「宝泉院」などの天井の板に使われたと言われています。
真田幸村の勇姿は、徳川軍の客将からも褒め称えられ、それぞれの家の文書に記録されたと言われています。
特に有名なのが島津家の文書に記録されていた
「真田日の本一の兵」
という言葉でしょう。
たった一人の浪人が、天下人・徳川家康を追い詰めたのですから、感嘆すべきものだったのでしょう。
それとも、徳川家康を密かに恨む大名たちが、いい気味だ!という憂さ晴らしの意味もあって、こんな記録をあらゆるところに残したのかも・・・。
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■実は鹿児島で生き延びていた?
豊臣秀頼が、大阪城で死なず、島津家が治める鹿児島に逃げたという伝説は有名ですね。
秀頼を薩摩に逃したのが真田幸村。
つまり真田幸村も生き延びたと言われているのです。
真田幸村・・・・安居神社で討ち取られたのでは?
実は真田幸村には数多くの影武者がおり、首になったのはその影武者なのだと・・・。
そして秀頼の亡くなった瞬間を見たものはおらず、そのため、「生存説」が広まったと言われています。
秀頼の遺体も見つかっていないみたいですからね。
さて、薩摩では、その後、無銭飲食してもおとがめなしの一団が突然現れたと言われているそうです。
飲食代は、後に薩摩藩の人間が支払いに来たのだとか。
鹿児島には秀頼の墓とされるものが残っていると言われています。
ということは真田幸村は生きていたってことなのでしょうか?
真田幸村の正室で大谷吉継の娘・「竹林院」は余生を京都で過ごしたと言われています。
真田丸で長澤まさみさんが演じた「きりちゃん」こと「高梨内記の娘」はその後の動向がはっきりしていません。
もしかしたら、鹿児島できりちゃんと一緒に、穏やかな余生を過ごしたのかもしれませんね。
真田幸村には側室が3名、子供が三男九女がいたと言われています。
そのうち、大阪城で一緒に戦った「真田大助」、幸村が生きていたとしたら、おそらく大助も一緒に生き延びていたことでしょう。
きりちゃんと大助と幸村・・・・静かな余生を過ごしていてほしいものですが・・・・・・・。
でも、どうして鹿児島なのでしょうか?
そして、この伝説は本当なのでしょうか?
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■伝説は本当か?
どうして秀頼は「鹿児島」に逃げたと言われているのでしょうか?
鹿児島といえば、「島津家」が支配する地域。
島津家といえば、元々は九州一帯をほぼ制圧していた武闘派・イケイケの名家。
しかし、豊臣秀吉の遠征軍にコテンパンにされて、九州一帯の領地は現在の鹿児島県のみへと減封されてしまいます。
豊臣秀吉に怨みを抱いていたことでしょう。
そんな島津家が、どうして豊臣秀吉の息子・秀頼を匿ったのか?
どうして秀頼は鹿児島に逃げたと言われているのでしょうか?
その理由は、大阪夏の陣の22年後に勃発した「島原の乱」にあるようです。
島原の乱は「天草四郎時貞」という人物が起こした反乱。
天草四郎時貞は、その時、自分のことを「豊臣秀頼の息子」と名乗っていたのだと言われています。
名前は「豊臣秀綱」
天草四郎時貞の年齢は当時14~16歳だったとか。
秀頼が生きていて、子供をもうけたとすれば計算があいます。
島原の乱が発生した島原は、薩摩藩の領地ではありませんでしたが、薩摩藩のすぐ近く。
そのため、「秀頼は鹿児島に逃亡して生き延びた」と言われているのだそうです。
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島原の乱で天草四郎時貞は亡くなっております。
しかし、天草四郎時貞は本当に秀頼の子なのでしょうか?
これについては、信憑性が低いと言われているそうですね。
そりゃそうでしょう・・・。秀頼が生きていたのだとしたら、匿った島津家は徳川家に滅ぼされているでしょうからね
秀頼の子を名乗ったのは、おそらく豊臣家の残党を味方につけるための嘘でしょう。
豊臣秀頼・・・・・幸村と一緒に生き延びていたってのも・・・・ちょっと無茶なのでは?
源義経にも似たような噂がありますが、おそらく、時の権力者に対しての敵対心が、そんな噂を生んだのではないでしょうか?
こんな歌が、当時の京都で流行ったということです。
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」
でも、秀頼は2m弱の巨体だったと言われていますし、幸村は小柄でおとなしい人だったと言われているようですから、「花のよう秀頼」と「鬼のような真田」ってのは無理があるのでは?
この「秀頼生存」の伝説、ちょっと信じられるものではない気がします。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・真田丸の最終回・・・・真田幸村が徳川家康の陣に突撃して終了。
・島津家の記録にはその突撃の様子から「真田日の本一の兵」と謳われた。
・真田幸村・・・・鹿児島へ秀頼と一緒に逃げたと言われている。
・これは信じるに足りない伝説だろう。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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