真田信之がお通と浮気して子孫残した?実は弟・幸村より優秀だった?
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真田幸村の兄・真田信之。
有名なイケイケの弟・幸村よりも実は優れていた?
小野お通と浮気してた?
お通との間に子供は?子孫はまさかお通の血を引いている?
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■真田信之の詳細
真田信之・・・・元の名前は「真田信幸」。
関ヶ原の戦い後、父「昌幸」、弟「幸村」との縁を切ることを決意し、徳川家康への忠誠を誓う形で、「幸」の字を捨てて「真田信之」と名乗ったと言われています。
しかし、関ヶ原の戦い後、信之の書いた手紙を見てみると、しっかりと「信幸」と書かれているものもあるとか。
もしかしたら、略字を使用していただけなのかも。
最初の奥様は、従兄弟にあたる「清音院」さん。
彼女は真田信之の伯父にあたる「真田信綱」の娘。
ちなみに「真田信綱」という人はかなりの猛将だったらしく、弟の「真田昌幸」がとても尊敬していた人物だったそうです。
あくまでも噂ですが、昌幸は愚痴っぽく「兄貴が生きてたらなぁ」と何度も口にしていたらしいです
兄「信綱」のような豪傑になってほしいという願いから、兄の名前「左衛門」を次男の幸村に名乗らせたとも言われています。
さて、真田信之はその後、徳川家康の家来・「本多忠勝」の娘「小松姫」を妻にします。
「清音院」さんは側室に格下げ・・・。
真田信之は父「昌幸」と弟「幸村」が、共に徳川家に徹底抗戦をして悩ませた戦犯であるにもかかわらず、真田家を明治まで存続させた土台を築いた人物。
それから、実は、戦争もめちゃくちゃ強かった・・・・。
実は幸村よりも優秀だったのでは?
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■実は弟・幸村より優秀だった?
真田信之・・・はっきり言って、地味です。
そう・・・・・地味なんです・・・・・。
何故かと言うと、父「昌幸」と弟「幸村」が、あまりにも派手だから!!
しかし、真田信之・・・・かなり優秀だったのではないでしょうか?
政治能力については、真田信之は幸村よりも遥かに優秀だったでしょう。
何と言っても、徳川幕府に睨まれている「真田家」を、無事に存続させたわけですから。
ただ、戦争の上手さはどうだったのでしょうか?
真田家といえば、「真田幸隆」「真田昌幸」「真田幸村」、そして先程申しました「真田信綱」などなど、めちゃくちゃ戦争が上手な人間が有り余っております。
そんな中でも、信之は結構な戦争の巧者だったようです。
17歳の時、真田信之は800人の兵士を率いて、手子丸城というお城を攻めました。
その手子丸城の守備兵は5000名。
信之の兵力の6倍以上。通常、攻城戦は、守備兵の数倍の兵力がなければ失敗すると言われています。
現実的に考えれば、信之の手子丸城攻めは無謀。
しかも手子丸城の守備兵は、籠城を決断!城から出てきてくれません。
それに対して信之は、工作兵を手子丸城の北の丸に差し向けます。
工作兵は、城に放火しながら「裏切り者が出た」と叫びまくったというのです。
そのタイミングを見計らって、信之は自ら率いる決死隊50名で城に突撃。
見事に6倍の敵が守る城を奪いました。
ちなみにこの時、手子丸城を守っていた「富永主膳」という人。
彼は後年、徳川幕府の家来となって、信之の同僚になるのですが、この時の信之の戦いを絶賛して褒めちぎったとか。
何度も何度も周囲の人に、信之の勇姿を語って聞かせたとのことです。
6倍の兵力が篭もる城を攻め落とした信之もすごいですが、負けたにも関わらず、相手を絶賛する「富永」さんも、器の大きな人ですね。
信之・・・地味だけど、父や弟と同じように、戦争でも強かったんですね。
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■お通と浮気?
大河ドラマ「真田丸」
大泉洋さんが演じる「真田信之」が浮気してましたね・・・・。
相手は「小野お通」という人物。
この小野お通さんという人は、詩・琴・書などに才能を発揮した天才的芸術家だったそうです。
淀殿に仕えた人物で、秀吉とも面識があったのでしょうね。
信之がお通さんに好意を抱いていた事は間違いないみたいですね。
1622年、お通さんから信之に手紙が来たんだそうです。
その返事を書いた信之・・・・彼の手紙には、「私の領地に遊びに来て」と誘いの言葉が書かれていたんだそうですね。
しかも、奥様の「小松姫」から、
「そろそろ京都の人を側室に迎えたら?」
と言われていたんだそうです。
実際に信之がお通さんを側室にしたことはなかったらしいですけど・・・・。
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■子孫はお通の血を引く?
小野お通さんを側室に迎えることはなかった信之・・・。
どういうわけか、信之の息子が、お通さんのお嬢さんを側室にしています。
真田信之の次男・信政の側室・小野図子さん。
彼女は「真田信就」を出産し、真田信之の血筋を後世に伝えたみたいですね。
ちなみに真田信就の息子さんの名前が「真田信方」、その子が「信清」。
彼らは上野の国と伊豆の国に合計2000石の領地を貰っていたらしいです。
つまり小野お通さんの血が、真田家に入ったってことですね。
信之さん・・・・浮気はしていなかったかもですけど・・・・その無念を息子に引き継がせた・・・・?
だとしたら、もしかしたら、ゲスだったのでは???(^_^;)
■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・真田信之、政治能力も戦争の能力にも優れていた。
・800名の兵士で5000の兵士が篭もる城を落城させた。
・信之は小野お通さんに好意を抱いていたらしい。
・信之の次男が、お通の娘「小野図子」さんを側室にした。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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