織田有楽斎の最期とは?実はキリシタン大名だったというのは本当か?
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大河ドラマ「真田丸」で、豊臣家を裏切りっていた井上順さん演じる「織田有楽斎」
その最期はどのようなものだったか?
そして、彼が豊臣家を裏切った理由とは?
実はキリシタン大名だった??
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
よろしければお付き合いくださいませ。
南無阿弥陀仏・・・。
■「真田丸」織田有楽斎を追い出す?
大河ドラマ「真田丸」
第48話で、徳川家康の暗殺を目論む真田幸村。
その作戦の内容を「織田有楽斎」に告げる・・・。
織田有楽斎は表向きは真田幸村の暗殺計画を支持するように見せておきながら、家康に危険を知らせようと手紙を用意する。
その手紙を障子越しに部下に渡す織田有楽斎。
しかし手紙を受け取ったのは真田幸村だった・・・・。
今すぐ出て行け。そして戻ってくるな。
その言葉に大きく頷いた有楽斎は、その後、穏やかな余生をおくった・・・・。
史実では「徳川家康・秀忠」の許可をもらった上で、自分から大阪城を退去したということなんですけどね。
織田有楽斎さん・・・・その後どういった余生をおくったのでしょうか?
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■最期とは?大阪城を出た後、彼は何を?
織田有楽斎は、1621年に亡くなっています。
彼は武闘派・イケイケだった兄の織田信長とは異なり、文化人だったようですね。
千利休の弟子として、有楽流という現在まで残る茶道の流派を立ち上げた人物でした。
ちなみに子孫については以下のリンク記事を御覧くださいませ。
リンク記事は別タブで開きます
大阪城を出た織田有楽斎は、その後、名古屋に行ったらしいですね。
名古屋にいたという家康に、息子の尚長と一緒に大阪城の内情を知らせに行ったということです。
この時、おそらくですが有楽斎は、姪である淀殿とその息子の豊臣秀頼の命乞いをしていたのかも。
秀吉が亡くなって、関ヶ原の戦いが終わった後、全国の大名が豊臣家から離れていく中でも、有楽斎は豊臣家への出仕を続けて、淀殿や秀頼の後見人として頑張っていたらしいですからね。
彼はその後、京都東山に行って茶の湯に没頭!
有楽流を創設します。
茶道有楽流とは、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」などとは異なり、「武士の茶道」なんだとか。
お茶をたてる時に、脇差を腰にさすという姿で行うのだそうです。
さて、彼は大阪の陣が終結した6年後に亡くなりますが、京都に行った後、彼は大和国・現在の奈良県に持っていた3万石の領地を3つに分割し、四男・長政と五男尚長、そして自分にそれぞれ1万石ずつ領したそうです。
彼は、その後、京都東山で1621年12月13日、76歳で穏やかに亡くなったそうです。
2人の息子が領した芝村藩と柳本藩は明治まで続いたということですよ。
この分割相続は、もしかすると、織田有楽斎によるリスクヘッジだったのかも。
外様大名は徳川家に取り潰される可能性もありますから、分割しておくことで、取り潰されるリスクを減らしたのではないでしょうか。
そう考えると、「生き残る」ということを成し遂げた織田有楽斎は、結構したたかだったのかもしれません。
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■実はキリシタン大名だった?
織田有楽斎・・・・実はキリシタン大名だった?
愛知県犬山市に、「恕庵(ジョアン)」という名前の、織田有楽斎が造ったという茶室が残されています。
この茶室、1618年、大阪の陣終結の3年後に京都・建仁寺に建造されていますが、その後犬山市に移築された国宝です。
この「ジョアン」という名前、実は織田有楽斎さんの洗礼名だったんだと言われています。
ジョアン・・・・ヨハン・Johan??
洗礼名とは、キリスト教徒が洗礼を受ける時に付けられる名前。クリスチャンネームとも言われています。
ということは、織田有楽斎はキリスト教徒だったということでしょう。
有楽斎の本名は「織田長益」。それを有楽斎と号したわけですが、名前からして仏教徒みたいな感じだったのに、キリスト教徒だったとは・・・・。
キリスト教は、当時、豊臣秀吉が、1587年に「バテレン追放令」を発して禁教に!
徳川幕府も1612年から1614年に禁止令を出して、大名たちに改宗を迫り、一人もいなくなったと言われています。
ちなみに、大名「高山右近」だけは改宗に応じること無く、国外追放処分となっています。
有楽斎・・・・・もしかすると、豊臣家を裏切った理由は、自分だけはキリスト教徒として認めてもらうため・・・・とか?
なんの根拠もないことですけどね(^_^;)
■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・大河ドラマ「真田丸」で、織田有楽斎は大阪城を追い出されていた。
・史実では、「徳川家康や秀忠の許可を貰って」自分から大阪城を出ている。
・大阪城退去後、織田有楽斎は京都東山で悠々自適な生活をおくっていたらしい。
・安らかな終わりを迎えた。
・織田有楽斎は名前に似合わず、キリスト教徒だった。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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