織田有楽斎は裏切り者のスパイだった!?子孫は今どこにいる?
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大河ドラマ「真田丸」で、主人公「真田幸村」と対立している「織田有楽斎」さん。
彼は裏切り者のスパイだった?
茶道の名人として知られる「織田有楽斎」さん。
子孫は今どこにいるのでしょうか?
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拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■「織田有楽斎」の詳細
織田有楽斎、本名「織田長益」。戦国大名「織田信長」の弟ですね。織田有楽斎は11男、信長さんは3男ですね。
信長さんと有楽斎さんには13の年齢差があります。
織田有楽斎さんは、軍事においてはそれほど有名だったわけではないみたいですね。
織田信長さんの長男「織田信忠」さんの家来として使えたとか・・・。
本能寺の変で、織田信長さんが明智光秀に殺害された際には、岐阜に脱出して織田信雄に仕えたみたいです。
その後は「小牧・長久手の戦い」で徳川家康に協力して秀吉に対抗。
しかし家康が秀吉に屈服、以後は豊臣秀吉の家来に・・・。御伽衆という「秀吉の話し相手」に取り立てられた後、名前を「有楽斎」とします。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、戦後に現在の奈良県「大和国」に領地を32000石の領地をもらいました。
その後、姪である「淀殿」の庇護者という立場で、豊臣家と徳川家の間にたつようになります。
さて、大河ドラマ「真田丸」の「大阪の陣」では、織田有楽斎さんは「怪しい人物」として描かれています。
噂では「裏切り者」「スパイ」なんて言われているみたいですが、大丈夫なんでしょうか?
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■「織田有楽斎」は裏切り者?スパイ?
「真田丸」では「裏切り者」「スパイ」のような演じ方をされているみたいですが、実際には違うみたいですね。
実際には「大阪冬の陣」に豊臣方として参陣し、姪の「淀殿」とその子「秀頼」を助けるために、徳川家康とのパイプ役を務めていたみたいです。
確かに、血の繋がった姪を守るために、主戦派である「真田幸村」や「大野治長」達とは異なる方法を用いようとしただけのようですね。
この「大阪冬の陣」という戦役、結末は、「豊臣家」と「徳川家」の和睦という形で終了しております。
この時、和睦を結ぶために奔走したのが、「織田有楽斎」なのです・・・。
さて、どうして織田有楽斎は「裏切り者」「スパイ」と言われるようになってしまったのでしょうか?
それはおそらく「大阪夏の陣」における織田有楽斎の姿勢に問題があったのでしょう。
大阪冬の陣の数カ月後に怒った「大阪夏の陣」。この戦役で豊臣家は滅亡するわけですが、この大阪夏の陣に際して、織田有楽斎は豊臣家から離反してしまうのです。
なぜ離反したのか?
豊臣家から徳川家に寝返ったのか?
大阪夏の陣については、諸説ありますが、開戦のきっかけは「真田幸村」たち「浪人衆」が、秀頼を担ぎ上げて無理矢理開戦したのだとも言われています。
「浪人衆」が実質的に支配する大阪城において、織田有楽斎さんは「もう自分の力では、秀頼を救い出すことは出来ない」と思ったらしいですね。
「誰も自分の命令には従わないので、大阪城内にいても無意味である」
として、家康の許可を受けて、大阪城を離脱したそうです。
更には、「大阪冬の陣」の和睦の条件の中には「織田有楽斎の子供を人質として江戸に差し出す」という条件も含まれていたらしいので、この「大阪夏の陣」で下手に豊臣家に味方すると、息子を殺害される恐れがありました。
つまり「裏切り者」「スパイ」というわけではなく、「家康とのパイプ役」であり、しかも「大阪夏の陣」では「豊臣軍に加わらなかった」ということで、勘違いされたのでしょう。
ちなみに、大阪城を出た後は「京都」に住み、茶道に没頭したみたいですね。
さて、では「織田有楽斎」さんの子孫は今どこにいるのでしょうか?
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■子孫は貴族?今どこにいるの?
織田有楽斎さんの息子たちは、それぞれに1万石の大名になり、「芝村藩」「柳元藩」としてそれぞれに明治を迎えていると言われています。
ちなみに、有楽斎の息子の1人「長孝」が野村藩なる領地をもっていましたが、こちらは断絶しています。
さて、織田有楽斎の子孫は、この「芝村藩」「柳元藩」を通じて現在でもご存命です。
織田有楽斎さんは茶道「有楽流」の開祖だそうです。
なんでも織田有楽斎さんは「千利休」さんのお弟子さんだとかで、茶道ではかなりの有名人。
その有楽流の家元を、代々、「芝村藩」を通じた織田有楽斎さんの子孫が引き継いできたのだとか。
2016年現在、茶道「有楽流」宗家の家元は、17代目の「織田宗裕」さん。女性です。
ちなみに彼女のお母様は16代目の「織田宗澄」さん。
この芝村藩系の織田有楽斎さんの子孫は、明治時代は「子爵」の称号を持つ「貴族」さんだったとか。
元大名だから、当然でしょうけどね。
ちなみに、織田有楽斎さんの子孫のお家では「桔梗の花」は決して飾らないのだそうです。
17代目宗家の「宗裕」さんは、それを不思議に思っていたらしいのですが、父の「長繁」さんに尋ねたところ、こう言われたそうです。
「敵の華だから」
なるほど・・・。桔梗といえば、明智光秀の家紋ですからね・・・。
例え400年経過しても、そういうものは形を変えて、伝統として残っているものなのでしょうね。
その「織田宗裕」さん、どこに住んでいるのかというと、どうやら自宅は「名古屋市」にあるみたいです。
名古屋と言えば、織田信長の出身地ですね。
奈良の「芝村藩」から、最終的には「織田信長」の出身地に移り住むとは・・・・やはり縁があるのでしょうかね?
ちなみに、東京「有楽町」という名前は「織田有楽斎」の屋敷があったから、それにあやかって「有楽町」という説がありますが、実際には「織田有楽斎」は人生の殆どを関西で過ごしているため、この説は信憑性に乏しいみたいです。
実際には「浦原」という地名が、「有楽町」に変化していったという説が有力らしいですね
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・織田有楽斎が大河ドラマ「真田丸」で裏切り者・スパイのように演じられている。
・実際には「裏切り者」でも「スパイ」でも無く、「家康とのパイプ役」
・織田有楽斎の子孫は名古屋市居住。
・子孫のお名前は「有楽流」宗家17代目家元「織田宗裕」さん。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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