淀殿は無能?大砲の砲弾で侍女即死に怯え和睦し、最期は自刃した戦犯
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豊臣秀頼の母・淀殿は無能だったのか?
大阪冬の陣で、大砲の砲弾を天守閣にくらい、目の前で侍女が即死して怯えて不利な条件で和睦?
最期は息子と一緒に自刃。
彼女は戦犯だったのか?
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南無阿弥陀仏・・・。
■「淀殿」と呼ばれるようになった理由
大河ドラマ「真田丸」で女優「竹内結子」さんが演じている「淀」殿。
彼女の素性についてまずはご紹介致します。
「淀」殿、本名は「茶々」。
彼女の父親は北近江・現在の滋賀県北部の大名「浅井長政」。
母は「織田信長」の妹「お市」。
つまり「淀」殿は「織田信長」の姪。という事になります。
「お市」の方は、兄・織田信長と夫・浅井長政の戦いに巻き込まれ、終始、夫の浅井長政に味方します。
しかし、織田信長には叶わず、浅井長政は敗死。居城である小谷城は落城。
お市の方は、「淀」と、彼女の妹「初」「江」と共に、織田信長に引き取られます。
ちなみにこの時、淀の兄「万福丸」は、秀吉に発見されて、関ヶ原で処刑されています。
織田信長が亡くなった本能寺の変の直後、「お市」は秀吉のライバル「柴田勝家」に嫁ぎ、「茶々」「初」「江」も柴田勝家の城「北ノ庄城」へ。
しかし「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が秀吉に敗れたため、お市は柴田勝家とともに北ノ庄城で自刃。
その後、「茶々」「初」「江」の3人は秀吉によって保護されます。
次女「初」は大名「京極高次」の妻に、三女「江」は2度の結婚に失敗した後に徳川家康の三男「徳川秀忠」に嫁ぎます。
そして「茶々」は豊臣秀吉の側室に!
そこで「茶々」は秀吉の子「捨丸」こと「鶴松」を出産しますが、夭折。
その後再び「お拾」こと、後の豊臣秀頼を出産します。
秀吉は我が子誕生に喜び、茶々に対して「淀城」というお城を与えます。
このため、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになるのです。
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■淀殿は無能?「大阪冬の陣」は淀殿がビビって和睦した?
さて、淀殿。
ほとんどのドラマや小説では、まるで豊臣家を滅ぼした現況の様に描かれます。
どうしてそれほどまでに悪者・・・・無能として描かれてしまうのか?
おそらくですがこれは、「淀殿が犯したとされる2つの失敗」が元になっていると思われます。
その一つが「大阪冬の陣でビビって和睦」したこと。
大阪冬の陣では、豊臣家が苦戦し、徳川家が圧倒した・・・なんて感じに描かれることが多いですが、そんなことはなく、実際には徳川軍は食料の欠乏と、寒さに苦戦していました。
そして何よりも「大阪城」という難攻不落の要塞に手も足も出ない状態だったみたいです。
もちろん豊臣家も余裕、というわけではなく、中には「諦めムード」の兵士もしばしば・・・。
しかし、長期戦になれば、食料豊富で城内にいる豊臣家のほうが有利な状態でした。高齢な家康にはこの時、「寿命が尽きる」というリスクも有りましたしね。
そのことを誰よりも理解していたのが「徳川家康」。
彼は「大阪城を攻める」という難しさを誰よりも理解してました。
その為、家康は和睦を模索します。
しかし、上手くいきませんでした。
その為徳川家康は、備前島から大阪城天守閣に向けて大砲を連発。
その砲弾の一発が天守閣に命中。
その砲弾は、淀殿の目の前で侍女を即死させました。
噂によると8人の侍女が亡くなったそうです。
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これに怯えた淀殿は「和睦」に傾きます。
そして決して受け入れてはならない和睦条件を受け入れてしまうのです。
それは「大阪城の二の丸・三の丸と堀の破壊」。
つまり、「大阪城の無力化」。
これによって大阪城の防御力は無になり、数カ月後の「大阪夏の陣」で豊臣家は滅亡。
淀殿は豊臣秀頼とともに自刃。
つまり、淀殿が「大砲の砲弾」にビビってしまったため、豊臣家が滅びた、とも言えなくもないわけです。
もしも大阪冬の陣で、もう少しだけでも淀殿が踏ん張っていたら・・・・もしかしたらもっと有利な条件で和睦することが出来たかもしれません。
ただ、淀殿の診断をした医師が、彼女の症状を記録に残していたらしいのですが、それによると、彼女は「食欲不振」「めまい」などの症状を訴えていたみたいです。
つまり、彼女は「うつ病」だった可能性があるのです。
うつ病・・・・・つらいですよね。
淀殿の心が折れてしまったのも仕方なかったかもしれませんね。
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■どうして豊臣家は徳川家に臣従しなかったの?
淀殿が犯した2つ目の失敗は「徳川家に臣従しなかったこと」かもしれません。
「関ヶ原の戦い」が終わった後、天下は豊臣家から徳川家へと徐々に移っていきます。
特に関ヶ原の戦いから3年後に徳川家康が「征夷大将軍」に任じられたことで、その流れは止まらなくなります。
「征夷大将軍」は「武家のトップ」に与えられる称号。
そのため、徳川家康が「武家のトップ」になったということは、武家「豊臣家」にも命令する権限を得たということになります。
家康は事ある毎に、豊臣家に臣従をするように迫ります。
しかし、淀殿はそれを尽くはねのけます。
元々家来であった徳川家に、豊臣家が臣従するということに、淀殿と秀頼は屈辱を感じて耐えられなかったのでしょう。
とはいえ、豊臣秀吉も、元々は織田信長の家来でありましたが、後に織田家を従わせています。
それにならって、家康も豊臣家に臣従するように迫りしたが、「淀殿」はプライドが高かったと言われているので、拒絶。
もしも豊臣家が徳川家にさっさと臣従していたら、おそらくですが滅亡することはなかったでしょう。もちろん秀吉から受け継いだ「天下人」という立場は失いますが・・・。
淀殿が自らのプライドに負けたため、豊臣家が滅びた・・・・とも言えなくもないかもしれませんね。
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■淀殿は戦犯なのか?
「『淀殿』が大砲にビビって大阪城無力化という和睦条件を受け入れてしまった」
「『淀殿』のプライドが高すぎて、徳川家に臣従しなかった」
というこの拙僧の説を元にして考えてみることにします。
さて、本当に淀殿のせいなのでしょうか?
上の2つの失敗、『淀殿』という部分を『秀頼』に置き換えても通用しますよね。
「『秀頼』が大砲にビビって・・・・」
「『秀頼』のプライドが・・・・」
最も、関ヶ原の戦いの時「秀頼」は8歳でしたので、「プライドが・・・」の方は通用しないでしょうけど・・・秀頼じゃなくても、誰でもこの『 』の中に名前が入りそうです。
淀殿1人の責任とは言い難いかもしれません。もしかしたら他の誰か・・・・豊臣家を手動する立場の人間たちのしくじりが重なったためかも・・・・。
もしかしたら、淀殿は「泥をかぶらされた」のかもしれません。
そもそも淀殿は女性で、小さい頃から兵法や武術を仕込まれている「武士」とは異なります。
強烈なリーダーシップを発揮できたとは思えません。
それでもなんとか秀頼を天下人にしようと奮闘した関ヶ原の戦いからの15年間、かなり頑張ったと言っていいのではないでしょうか。
そう考えると、「淀殿が豊臣家滅亡の戦犯」と言い切るのは酷なのかもしれませんね。
淀殿、最期は「大阪夏の陣」で、息子の秀頼とともに自刃して生涯を終えます。
女性ながらに自刃・・・。
母である「お市」も北ノ庄城で柴田勝家と一緒に自刃したと言われています。
母と同じ運命を辿るとは・・・・なんだか非常に悲しいですね・・・。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・淀殿・本名「茶々」は織田信長の姪。
・大阪冬の陣で、淀殿は「大砲の砲弾」にビビって和睦に応じた・・・・と言われている。
・淀殿はプライドが高く、徳川家に臣従しなかった。
・豊臣家滅亡の責任が淀殿1人にあるとは言い切れないのでは?
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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