片桐且元は無能な裏切り者?ナレ死どころか最期は壮絶?子孫の行方は
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豊臣家を裏切った「片桐且元」。
大河ドラマ「真田丸」では「ナレーションだけで死んでしまう」という「ナレ死」で終わっていますが、
これって、本当?
本当に片桐且元は「無能な裏切り者」だったのか?
実は「真田丸」では語られなかった真実が!!
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■片桐且元の詳細
片桐且元・・・「賤ヶ岳の七本槍」と言われ、豊臣秀吉に仕えた豊臣家の家老。
彼は元々、父の代から「淀殿」の父「浅井長政」に仕えていた侍でした。
しかし、織田信長に主君の「浅井長政」が殺害されてしまい、その領地を与えられた羽柴秀吉に、片桐且元は仕えることになります。
そして、1582年、「本能寺の変」が起こり、織田信長は死亡。
片桐且元が仕えた羽柴秀吉は、明智光秀を討ち果たして、天下人へ邁進していきます。
そんな中、織田信長の後継者争いが勃発。
羽柴秀吉の最大のライバル、「柴田勝家」との「賤ヶ岳の戦い」が起こります。
この「賤ヶ岳の戦い」で、活躍した7人の若者を秀吉は「賤ヶ岳の七本槍」と呼んで讃えたとのこと。
ちなみに「片桐且元」以外の6人とは「福島正則」「加藤清正」「加藤嘉明」「脇坂安治」「平野長泰」「糟屋武則」の6人。
彼らには若いながらに3000石という大きな領地が与えられたと言われています。
ちなみにこの「賤ヶ岳の戦い」で「石田三成」「大谷吉継」なども、3000石貰っていますね。
片桐且元はその後も秀吉に臣従し、功績を重ねていきます。
そして1598年。秀吉の死去に伴い、遺言にしたがって、豊臣秀頼の補佐役を勤めることになります。
関ヶ原の戦いでは、片桐且元は西軍東軍どちらにも付かず、家康が勝利した後は家康に協力し、その功績から大和国・今の奈良県に24000石の領地を貰います。
この頃から、急激に勢力を伸ばし始めた徳川家に対して、豊臣家の中で唯一のパイプ役となったみたいです。
さて、彼はこの後、悲劇に見舞われます。
1614年、それまでなんとか徳川・豊臣の架け橋を務めていた片桐且元・・・そんな時に「方広寺大仏殿の鐘の名分」事件が勃発。
豊臣家が再建した「方広寺」の鐘の文字に「国家安康・君臣豊楽」と描かれたわけですが、家康はこの文字を
「家康の文字を2つに裂いて呪いをかけ、豊臣を君主として楽しもうとしているものだ」
と難癖を付けたわけです。
片桐且元は、家康の居城である駿府城へ出向いて弁明に努めます。
しかし、家康には全く会えず、一月も足止めされたまま・・・。
そんな中で、中々帰ってこない且元の代わりに、豊臣の使者となった「大蔵卿局」が駿府城へやってきます。
この大蔵卿局に対しては、家康は寛容な態度を見せました。簡単に面会に応じ
「鐘の文字については怒ってないから心配するな」
と言ってくれます。
しかし片桐且元は、全く別な答えを持ち帰ってくるのです。
「秀頼の江戸への引っ越し」
「淀殿の江戸への人質」
「大阪からの国替え」
この3つのうち一つを選べ!というものでした。
この3か条は、家康から示されたものなのか?それとも片桐且元が独自に「徳川・豊臣の戦」を避けるために考えだしたものかは定かではないようです。
しかし、大蔵卿局が持ち帰った「ごきげんな家康」の様子とは真逆の片桐且元の答えに対して、豊臣の皆さんは「徳川家に寝返ったのでは?」と疑われ始めます。
そして、結局「片桐且元は大阪城を脱出」
以降は徳川家に仕えることになってしまったのです。
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■「大阪城砲撃」実は片桐且元が率先して撃ちまくってた?
さて、大河ドラマ「真田丸」では、片桐且元・・・・家康のカルバリン砲による砲撃に抗議していました。
淀殿の居場所は?という質問に対して、且元は口を閉ざしましたが、「淀殿を狙わないように居場所を特定したい」と言われて渋々教える「真田丸・片桐且元」。
しかし家康は、淀殿を狙って、大砲乱発!!
それに対して「片桐且元が抗議」。
その直後に「ナレーション死」つまり「ナレ死」・・・・。
しかし、実際には片桐且元・・・この砲撃を「自分で行っていた」なんて言われているみたいです。
片桐且元は、家康の砲兵50名程を率いて、備前島から大阪城の本丸に対して、砲撃したとか・・・。
元々、大阪冬の陣で片桐且元は「先陣」・・・つまり最初に攻撃する役を家康から命じられており、しかも片桐且元は積極的に家康に協力していたらしいですね。
ありゃりゃ・・・。裏切り者で決まりかな??
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■本当に裏切り者だったのか?無能って本当?
片桐且元は裏切り者だったのでしょうか?
当時から片桐且元は「裏切り者」と言われてかなり嫌われていたみたいですね。
そりゃあ秀吉に引き立ててもらって秀頼の補佐役を務めていたはずなのに、あっという間に裏切って淀殿に向かって大砲乱発じゃあ裏切り者って言われても仕方ないですよね。
ただ、明治から昭和にかけての作家「辻善之助」さんが言うには、
「片桐且元の出した3か条は家康の寿命が終わるまでの時間稼ぎだった」
というのです。確かに大阪の陣のとき、家康は74歳。平均寿命が50前後だった当時ではかなりの高齢ですからね。妥当な策かも。
しかし「辻善之助」先生は
「片桐且元は平凡な人だった」
とも言ってます。無能ってほどではなかったのでしょうね。
よく小説なんかでは、片桐且元の目的は、家康に対して「豊臣秀頼の命乞いをして、外から秀頼を守るためだった」なんてストーリーが語られることもあります。
片桐且元・・・・・裏切り者だったのでしょうか?
実は、彼の死に方にヒントがあるようなのです。
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■壮絶な最期とは?子孫はどこに?
片桐且元・・・亡くなったのはいつ?
実は、「大阪夏の陣」で豊臣秀頼が亡くなった3週間後なんだそうです。
彼は元々身体を壊しており、それほど長くは生きられない状態だったと言われていました。
片桐且元の息子「片桐孝利」は「病死」と届け出たらしいですし、そのとおりに処理されたと言われています。
しかし、一説には「秀頼への殉死」だったのではないか?と言われています。
殉死・・・・つまりは「後追い自殺」・・・・。
秀頼の三七日法要に合わせての殉死・・・。
片桐且元・・・・・彼は裏切り者だったのか?それとも殉死するほどの忠臣だったのか?
大河ドラマ「徳川葵三代」では、「小林稔侍」さんが「片桐且元」を演じておられました。
「小林稔侍・片桐且元」は切腹して亡くなっています。
片桐且元を祖とする「竜田藩」は1655年に後継者がいないということで断絶!
片桐且元の弟である貞隆を藩祖とする「大和国・小泉藩」は、明治まで存続し、子孫は子爵となっています。
おそらくですが、片桐且元の弟の子孫は、奈良県に今でも存続していることでしょう。
しかし、片桐且元の子孫は、残っていないということになります。
裏切り者なのか・・・・・忠臣なのか・・・・。どっちなんでしょうか・・・。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・片桐且元は、元々、淀殿の父「浅井長政」の家来だった。
・後に秀吉の家来になり、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるほど活躍した。
・片桐且元は、自ら大阪城の淀殿に対して発表したらしい。
・秀頼の死後3週間で病死。殉死の噂もあったらしい。
・片桐且元の子孫は、1655年に断絶しているが、弟の子孫は明治に子爵になっている。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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それではこの辺で失礼致します。
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