本多正信は真田丸で軍師だが昔は家康と敵対?息子は関ヶ原で西軍に?
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大河ドラマ「真田丸」で「近藤正臣」さんが演じている「本多正信」
彼は家康の軍師みたいですが、実は昔、家康と敵対していた?
しかも関ヶ原の戦いでは、息子が石田三成の軍に参加?
本多正信・・・・本当に悪者だった・・・・?
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拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■本多正信とは?悪者だった?
大河ドラマ「真田丸」で家康の側近として、悪巧みをしている「本多正信」。
彼は実際どんな人だったのでしょうか?
本多正信、元々は「鷹」を扱う「鷹匠」として家康に仕えたと言われています。
徳川家康は「鷹狩」が非常に好きだったと言われていますから、重用されていたのでしょう。
本多正信は、若い頃は家康のもとで、ほとんど活躍してはいません。
それにはわけがあるのですが、後述します。
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本多正信が活躍しだすのは、「本能寺の変」で織田信長が亡くなってからだとされています。
彼は知恵袋として徳川家康に仕え、家康も正信を信頼していたとのことです。
家康は正信のことを「友」と呼んで信頼していたらしいです。
ただ、本多正信は同僚からの嫌われっぷりが半端じゃなかったそうですね。
真田信之の姑で、「本多正信」の遠縁にあたる「本多忠勝」(大河「真田丸」では「藤岡弘、」さんが演じていた)からは
「本多正信の腑抜け」
と言われ、更には
「同じ本多一族でもあいつとオレは無関係だ」
と言われていたらしいです。
更には、本多忠勝と同じく「徳川四天王」と呼ばれた「榊原康政」からは
「『はらわた』の腐った野郎」
と罵られていたということです。
家康の家来たちは「三河武士」と呼ばれ、男らしい性格のものが多かったらしいですが、そんな中で本多正信は策略が得意な、ある意味「ダークサイド」。
例えるなら「体育会系」の中に、インテリが混じっているようなもの。
周囲があまりに異なるタイプの人達ばかりだったため、嫌われるのも仕方ないでしょうね。
しかし、家康への忠誠心は疑いようもありません。
本多正信は忠臣だったのですが、ただ他の人たちとはタイプが違ったため嫌われていたのです。
この嫌われっぷりが、後に悲劇を発生させることになるのですがね・・・詳しくは後述します。
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■正信が家康と敵対?
本多正信・・・・家康から「友」と呼ばれ、親しく側に置いておいた側近中の側近!!
しかし、実は家康と敵対していた時期がありました。
1563年。徳川家康が収める領地「三河」で「一向一揆」が起こります。
「一向」とは現在で言うところの仏教「浄土真宗」のこと。(ちなみに拙僧は「浄土宗」のお坊さんです(゚∀゚))
そして「一揆」とは反乱のこと。
つまり「三河一向一揆」とは「三河国の浄土真宗の反乱」というわけですね。
徳川家康はこの「三河一向一揆」に対して武力弾圧を開始します。
それに反発したのが家康の家来だった「本多正信」。なぜなら彼は浄土真宗の宗徒だったから。
彼は突然家出をし、一向一揆に協力して家康と敵対。
結局「三河一向一揆」は鎮圧され、本多正信は諸国を旅する浮浪者に・・・・。
その後、10年近くも放浪を続けたらしいですが、友人で家康の家来だった大久保忠世の助力もあって、家出解消!
徳川家に戻って、家康の軍師となったわけです。
これが「本多正信が若い頃、家康のもとでほとんど活躍していない理由」です。
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■次男が石田三成に協力して、父・正信と敵対?
本多正信には出来の良い息子がいました。長男を「本多正純(まさずみ)」と言い、父譲りの頭の良さから家康に気に入られて、側近として仕えていました。
そして、次男「本多政重」。
彼は「ダークサイド」な本多正信・正純の父子とは違って、「体育会系」だったそうです。
彼は徳川秀忠の乳母「大姥局」の息子を斬り殺して家出!
その後、真田幸村の嫁の父「大谷吉継」に仕え、次には五大老の一人「宇喜多秀家」に仕えます。
宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで、東軍率いる家康と敵対する「西軍」つまり石田三成の仲間。
当然本多正信は「徳川家康」率いる東軍につきます。
つまり、「真田昌幸・幸村」と「信之」のように、父子で敵味方に分かれてしまうわけです。
結果、東軍の徳川家康が勝利。
西軍についた次男・本多政重は、父の計らいもあってか、無罪となりますが、宇喜多秀家は領地を没収されたため、失業。
その後「加賀百万石」の前田家につかえて3万石を貰います。
ただ、それも長くは続かず、今度は上杉景勝(「真田丸」では遠藤憲一さんが演じてます)に仕えます。
そこで上杉家重臣の「直江兼続(真田丸でいつも遠藤憲一さんのそばにいる渋い声の人)」の養子となって直江家の跡取りとなります。
しかし、それも長続きせず、前田家に出戻り・・・。
前だけでは「家老」という重職について、大活躍!
7万石をもらう大出世を果たします。
ちなみにこの時、父の正信は2万2000石でしたので、父の3倍以上の領地をもらっていたのです。
まぁ、正信の領地が小さいのには理由があるわけですが・・・後述します。
本多政重は、父や兄のような「ダークサイド」ではなく「体育会系」だったため、人々から信頼され、何度出戻りを繰り返しても信頼を勝ち取り、重職に付かせてもらったとのことです。
父と兄とは異なる道を行ったことで、次男の本多政重は大成したんですね。
それに対して、「ダークサイド」だった兄は・・・・。
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■大阪の陣の後・・・長男が没落?
本多正信は、大阪夏の陣の後に徳川家康が亡くなった後を追うかのように亡くなります。1616年6月。
家康が亡くなった2ヶ月後のことでした。
後を継いだのは「ダークサイド」な長男「本多正純」。
父・正信は息子・正純に、いつもこう教えていたといいます。
「私が死んだら、お前は必ず大きな領地をもらうだろう。しかし、私たち父子は同僚から徹底的に嫌われている。
だから、大きな領地をもらうと、同僚から妬みを受けて策略をめぐらされて失脚させられるだろう。
私はこれまで何度も家康様から領地を与えると言われたが、ことごとく遠慮して、お断りしてきた。
3万石まではありがたく頂戴するとしても、それ以上は絶対にもらうな。辞退しろ!
そうじゃないと、必ず災いが降りかかるぞ!」
しかし、ダークサイド本多正純は父の教えを無視して宇都宮に「15万5000石」という大きな領地を貰います。
するとどうでしょう。「宇都宮釣天井事件」という騒動に巻き込まれて、本多正純は領地を失います。
この「宇都宮釣天井事件」とは正純が居城「宇都宮城」で、釣天井を利用して「徳川秀忠」を暗殺しようとしたという事件。
これは秀忠の重臣「土井利勝」が、大嫌いだった本多正純を失脚させるために仕掛けた罠だとも言われています。
何しろ「本多正純」も徳川家康・秀忠によく仕えた忠臣でしたからね。実際に謀反を企てたとは考えにくいです。
それはともかく、本多正純は息子とともに軟禁生活を強いられ、その後亡くなります。
子孫は正信・正純父子のような出世は出来ず、没落していったとのこと・・・・。
それにしても、父・正信は未来を正確に予測していたのですね・・・。
それに逆らった「本多正純」・・・・彼は筋金入りの「ダークサイド」だったのかな・・・。
同僚から嫌われまくった果ての悲劇・・・・父・正信はあの世で何を思っていたのでしょうかね。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・本多正信は、「ダークサイド」で、徳川家の同僚からは嫌われていた。
・家康からは信頼され、「友」と呼ばれていた。
・「三河一向一揆」をきっかけに家康の側から家出し、家康と敵対!
・本多正信の次男「本多政重」は「ダークサイド」ではなかったため、父よりも出世した!
・長男・正純は、父の教えに逆らったため、改易し本多家は没落していった。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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