大角与左衛門wiki!ドラマ真田丸で樋浦勉演じる実在の裏切り者?
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大河ドラマ「真田丸」で、豊臣家を裏切った厨の爺さん「大角与左衛門」
どうして豊臣家を裏切ったのか?
実は史実でも実在した裏切り者?
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
下のリンク記事は別タブで開きます。
よろしければお付き合いくださいませ。
南無阿弥陀仏・・・。
■大角与左衛門wiki風プロフィール
名前・・・・・・・・大角 与左衛門(おおすみ よざえもん)
生年・・・・・・・・おそらく1545年くらい(大阪夏の陣では多分70くらい)
主君・・・・・・・・織田信長→豊臣秀吉
出身地・・・・・・・尾張国
特技・・・・・・・・スパイ活動・料理
全て推測なのでお許し下さいませ(T_T)
大角与左衛門・・・・大河ドラマ真田丸では名優「樋浦勉(ひうら べん)」さんが演じた「料理人のじいさん」
ちなみに、49回「前夜」で後藤又兵衛基次さんが討ち死にしてますが、それについて詳しくは以下のリンク記事をご覧くださいませ。
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■大角与左衛門と豊臣秀吉の関係は?
大角与左衛門・・・・彼は一体何者なのか?
史実上、大角与左衛門という人物は実在していたみたいですが、あまりにも無名なので詳しい情報がありません。
なので、大河ドラマ「真田丸」で明らかになったことを元にして推理してみたいと思います。
「真田丸」の第44話「築城」の回で、樋浦勉さんが演じる「大角与左衛門」が初登場しました。
彼は言うには、太閤・豊臣秀吉と初めて知り合ったのは「桶狭間の戦い」で、だそうです。
桶狭間の戦いといえば、1560年、織田信長が、大国・駿河の今川義元を奇跡的に討ち果たした戦役。
双方の軍勢にはかなりの差があったらしく、織田信長軍が3000.今川義元軍が25000と言われています。
この戦いで、大角与左衛門は豊臣秀吉の家来・・・・だったわけではないでしょう。
この戦役が起こった1560年といえば、秀吉は足軽あたりの下級武士だったため、おそらくですが家来と言える者はいなかったのではないでしょうか。
となると、おそらく大角与左衛門は織田信長の家来・・・・又は織田家の家臣のそのまた家臣だったのでしょう。
その後、秀吉は、本能寺の変をきっかけにして天下統一。
その過程で、織田家の有力家臣を屈服させていったので、もしかしたらその屈服させた織田家の家来の軍団の中に大角与左衛門がいたのかもしれません。
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■「大阪の陣」で裏切って放火?
大角与左衛門という人物は、どうやら「大阪夏の陣」で豊臣軍に所属していた「台所奉行」、つまり料理人を務めていたそうです。
しかし、夏の陣で徳川家康に内通。
情報を家康に届けることで、自らの栄達を図った・・・・と言われています。
つまり、「裏切って情報を流すので、階級の高い侍として取り立ててくれ」ということですね。
大角与左衛門は、夏の陣において、大阪城に火をかけて逃亡したと言われています。
台所ですから、火の手をあげることは難しくはありませんよね。
結果、大阪城は炎上。
豊臣秀頼は、その炎の中で自刃して、姿かたちを留めること無く亡くなった・・・・とされています。
それにしても、大角与左衛門・・・大河ドラマ真田丸では「秀吉と出会ったのは桶狭間の戦い」と言ってました。
大阪夏の陣は1615年。桶狭間の戦いは1560年。
つまり、豊臣家との繋がりは55年。
そんな長い間、豊臣家と関係があったのに、どうして裏切ったのでしょうか?
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■なぜ裏切ったのか?
大角与左衛門はどうして裏切ったのか?
これはあくまでも拙僧の推測ですが、理由は2つあったのではないかと思います。
1,秀吉への妬み
2,人生最後の博打に打って出た
大角与左衛門・・・・・豊臣秀吉と長い付き合いだったと言われています。
しかし、それがかえって大角与左衛門の秀吉に対する憎しみを増加させてしまったのかもしれません。
秀吉といえば、「戦国一の出世頭」と言われる人。
農民から天下統一を成し遂げた人物ですね。
しかし、そのあまりに早すぎる出世から、彼を妬む人も多かったと言われています。
それに対して大角与左衛門は、老人となってしまっても「台所奉行」・・・・。
その出世にはあまりにも開きがあります。
桶狭間の戦いで知り合った、というのなら、2人は当時、おそらく同じくらいの身分だったのでしょう。
そんな秀吉の栄華を目の当たりにして、嫉妬心に火がついてしまった・・・のではないでしょうか。
ちなみにドラマ「真田丸」のオリジナルの設定では、大角与左衛門さん、秀吉に娘さんを乱暴されたと言ってました。
秀吉は女好きで有名ですからね。
家来の妻にまで手を出したと言われていますし・・・。
与左衛門の娘はその後、命を断ってしまい、伴って妻も・・・・。
大角与左衛門さん、ドラマでは最期は腹を切って自刃してました・・・。
それはともかくとして、2つ目の理由。
「人生最後の大博打」
これは簡単です。
大角与左衛門は大阪夏の陣でおそらく70歳近いでしょう。
失うものが何もない状態で、最期に博打をして出世を目論んだというところではないでしょうか。
どうせ失敗して元々。敗北必至の豊臣家の息の根を止める行動に打って出て、出世!
成功すれば、身内に引き継がせてやることも出来るでしょうからね。
まさに一石二鳥の賭けに出たのではないでしょうか。
まぁ、気持ちはわからなくもないですが、大阪城に入城した浪人たちは、その「一獲千金」を狙って入城した者ばかりでしょうから、そんな浪人たちからすると、大角与左衛門の抜け駆け的な行動は、憎まれてしかるべきものだったのではないでしょうか?
ところで大角与左衛門の最期とはどんなものだったのでしょうか?
その後、どうなったのかは以下のリンク記事をご覧くださいませ。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・大角与左衛門は桶狭間の戦いで豊臣秀吉と知り合ったらしい。
・彼は「出世」をもくろんで、徳川家康に内通したらしい。
・もしかしたら、大角与左衛門には秀吉に対する妬みがあったのかも・・・・。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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