後藤又兵衛の最期について!槍は今でも姫路の子孫が所持している?
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大河ドラマ「真田丸」にて、「哀川翔」さんが演じておられる「後藤又兵衛基次」
子孫はあのお笑い芸人???
後藤又兵衛の最期は壮絶なものだったそうです。
「槍の又兵衛」と言われた彼が使っていた「槍」は今でも子孫が大切に保管しているのでしょうか?
噂によると、姫路にある・・・・なんて言われていますが・・・。
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■後藤又兵衛の死に様(追記アリ)
大阪の陣において、大阪城に入城し、真田幸村や毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親と一緒に「大阪五人衆」と呼ばれた「後藤又兵衛基次」
元々は黒田長政の家来であり、「槍の又兵衛」と言われた猛者。
そんな彼の死に様は壮絶なものだったそうです。
1615年5月、道明寺の戦いにて。
大阪方は前年の大阪冬の陣において、和睦の条件として、大阪城の堀を埋めてしまい、籠城が出来なくなったため野戦に。
そして、奈良の方向から進撃してくる伊達政宗や松平忠輝たち軍を迎え撃つため、又兵衛は出撃。
河内平野に広く陣を敷かれる前に、途中の狭い道で敵を抑える作戦を採用。
5月1日、先発として後藤又兵衛、後備えとして真田幸村・明石全登たちが出陣。
しかし、。徳川軍は流石にこの「狭道での迎撃作戦」を見越していたらしく、恐ろしい速さで進軍していたらしいですね。
5月6日、道明寺に到着した後藤又兵衛軍。
すると眼前には徳川方・水野勝成の軍がすでに到着していたとか。
こうなっては「寡兵をもって狭道で敵を迎え撃つ」という作戦は使えない。
その為、河内平野への狭道の真正面にあった小松山に布陣し迎撃。
しかし、後備えの真田幸村や明石全登たちが濃霧のために到着が遅れてしまい、後藤又兵衛の軍は孤軍奮闘することに。
そもそも、狭い道から平野への入り口で敵を迎え撃つには、敵は広く展開できない状況下において、味方は鶴翼の陣などで大きく展開することで、敵を正面と左右の3方向から攻撃することが可能。戦闘員の数を敵よりも多くする事が目的のはず。
しかし、又兵衛はなぜか小松山に陣取ってしまい、敵の大軍に包囲されてしまった・・・・なんて話があるみたいですね。
まぁ、ド素人の拙僧からすると、高いところに陣取ったら勢い良く敵に切り込めるからいい感じ何じゃないかな?と思ったのですが、三国志の馬謖なんかもそれで失敗しているみたいですな・・・。
10倍以上の敵軍に対して、下山の勢いもそのままに、後藤又兵衛は突撃。
壮絶な乱戦を展開すること数時間、早朝から正午にかけての激戦の末、後藤又兵衛は胸を鉄砲で貫かれて戦死。
見事に一命をもって豊臣家の恩に報いた・・・・と言われています。享年56歳。
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追記します。
岡山県立博物館から2016年11月17日、「後藤又兵衛」の最期が記された資料が発表されました。
それによると、後藤又兵衛の最期は以下の通り。
「道明寺口の戦いで致命傷を負った後藤又兵衛は、豊臣秀頼から貰った脇差「行光」で家来に介錯(とどめの一撃)を頼んだ」
「後藤又兵衛は小姓の『長四郎』に脇差『行光』を渡して、自分の首を討ち、自らの最期を秀頼に伝えてほしいと指示。
しかし長四郎は首を落とすことが出来ずに『行光』のみを秀頼に渡した。
その後、もうひとりの小姓が、後藤又兵衛戦死を報告するために、後藤又兵衛の折れた旗、又は折れた刀を遺物として持ち帰ったり、秀頼に渡して戦死を報告した。
その後、その場に『金万 平右衛門(こんま へいえもん)』が到着した。」
この書面は、後藤又兵衛の旗下で大阪夏の陣を戦った「金万平右衛門(こんまへいえもん)」か、又はその子孫が書いたものだそうです。
岡山県立博物館が京都府在住の「こんま」さんの子孫から譲り受けたものだとか・・・。
敵に首を取られると、晒し者にされるという屈辱的な仕打ちを受けるらしいですからね。
ちなみに、大阪の陣で後藤又兵衛と一緒に戦った「木村重成」という武将は、首を討たれた後、家康にその首を褒められたとか・・・。
どういうことかというと、夏の陣で討たれた木村重成の首からは、とても良い香りがしたそうです。
家康が不思議に思って調べてみると、木村重成は髪に「お香」を炊き込めていたみたいですね。
つまり木村重成は討ち死にをすでに覚悟しており、首だけになっても、際立ってみせた・・・ということでしょうかね。
戦国武将とは、見事なものです。
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■フットボールアワー後藤が後藤又兵衛の子孫?
さて、後藤又兵衛には6男4女がいたとされています。
長男と次男は後藤又兵衛と一緒に大阪城に入城し、死亡したとされています。
その後、生き残った子供達は、帰農したり医師として活躍したりしたらしいです。
つまり又兵衛の子孫は全国あらゆるところにいるということですね。
さて、そんな中、気になる情報が・・・。
お笑い芸人の「フットボールアワー後藤」さんが、「後藤又兵衛基次」の子孫という噂・・・・。
本当でしょうか?
フットボールアワーの「後藤輝基」さん・・・・。大阪市東淀川区出身。
筋金入りのお笑い芸人ですが・・・・。
お名前は「後藤」で又兵衛と同じですよね。
そして気になるのが、又兵衛と同じ「基」の字。
戦国時代以前から、「偏諱(へんき)」といって、名前の一文字を授ける事はよくやられていたことです。しかも子供や孫にはよく行われていました。
例えば徳川家康さんは祖父の松平清康さんから「康」の文字をもらいましたし、徳川秀忠さんは豊臣秀吉さんから「秀」の字をもらい祖父松平広忠さんから「忠」の字をもらいました。
もしも、後藤輝基さんが又兵衛の子孫だとしたら、「基」の字を先祖から代々受け継いできた・・・と言うのはあり得る話でしょう・・・。
この話、あくまでも噂ですが・・・信じていいものでしょうか?(-_-;)
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■子孫は姫路にいる?
さて、後藤又兵衛の子孫が姫路にいる・・・という噂がありますが・・・どうなのでしょうか?
後藤又兵衛と姫路の関係は?と言うと、後藤又兵衛の当時の主だった黒田官兵衛孝高さんの居城が「姫路城」
というわけで後藤又兵衛さんは長く姫路にいたとか・・。
その後、姫路城に入城した「池田輝政」さんのところに、黒田家を家出した後藤又兵衛さんが転がりこんだ・・・・という話もあります。
先述しましたとおり後藤又兵衛さんには6男4女がいたとか。
そのうちの1人くらいは姫路にいても不思議ではありませんが、残念ながら、「姫路に子孫がいる」かどうかははっきりとはわかりませんでした・・・。
「後藤」という苗字はそれほど珍しいものではないですからね・・・。
ただ、姫路に後藤さんという苗字の方はたくさんいるでしょう。
その中に後藤又兵衛の子孫がいても、不思議ではないでしょう。というか、間違いなくいるでしょう。
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■槍は姫路?福岡?兵庫県加西市?
「槍の又兵衛」と言われた後藤又兵衛さん。
彼が愛用している槍が姫路にある・・・という噂があります。
これは本当なのでしょうか?姫路には子孫が・・・・という噂がありますので、子孫が槍を保管しているということが考えられるでしょう。
戦国武将は愛用の槍をいくつも所持していたとかんがえられるので、後藤又兵衛さんが使用した槍が姫路にあっても不思議ではないでしょう。
もしかしたら、後藤又兵衛の槍が、姫路にあるかも・・・・しれませんが、定かではないです。申し訳ありません。(-_-;)
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後藤又兵衛の2つの槍
さて、後藤又兵衛の槍というと、2つの槍が現存しているみたいですね。
一つは兵庫県加西市の多聞寺というお寺に保存されているといいます。真田丸34話の終わりで解説されてました(;´∀`)
この多聞寺は後藤又兵衛の子供が建立したお寺ということです。
ちなみに加西市は、後藤又兵衛と縁のある「姫路市」のお隣さん。
おそらく本物でしょう(^_^)v
もう一つが「日本号」という天下三名槍の一つ。ちなみに「天下三名槍」の残り二つは「本多忠勝の蜻蛉切」と「結城秀康の御手杵」。
この日本号は元々「福島正則」さんがもっていたものですが、後藤又兵衛の元同僚「母里太兵衛」さんとのお酒の飲み比べに負けた福島正則さんが母里太兵衛さんに賭けの代償としてもって行かれたとか・・・・。
その後、後藤又兵衛さんが母里太兵衛さんを救ったお礼に日本号を受け取ったと言われています。
日本号は現在、福岡市博物館に所蔵されています。
しかし、この日本号・・・・実際には、母里太兵衛さんが福島正則さんから奪い取って、明治まで母里家にて保管されてきたという事ですので、後藤又兵衛さんが使った・・・と言うのは無理があるかも・・・・。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・後藤又兵衛の死に様は、数時間に及ぶ激戦の末の壮絶なものだったらしい。胸を鉄砲で撃たれたとか。
・フットボールアワー後藤輝基が後藤又兵衛の子孫という噂がある。
・子孫が姫路にいると噂されている。
・後藤又兵衛の槍が「兵庫県加西市」の多聞寺・福岡市立博物館にあるという。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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