赤穂四十七士はかたき討ちが目的ではなく、実は再就職がしたかった?
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吉良上野介さんを討ち果たして、かたき討ちを達成した赤穂四十七士。
「忠臣蔵」なんて名前で大人気の物語。
300年以上経過した今でも有名なお話ですが
実はそんなにかっこいい話ではなく、実は「再就職」が目的の通り魔的事件だった?
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■忠臣蔵の物語をおさらい
忠臣蔵・・・・毎年年末になると必ず放送されるこのドラマ・・・。
毎年毎年・・・・吉良上野介さんとこに何回カチコミかければ気が済むんだ!といいたくなるようなしつこさ!!
たまには「吉良上野介」を主人公にして放送してもらいたいもんだ!!とも思うのですが・・・・・どうなんでしょうかね。
さて、愚痴はこれくらいにして、忠臣蔵のお話をおさらいしてみましょう。
1701年、江戸城の松之大廊下にて、吉良上野介義央さんが赤穂藩のお殿様「浅野内匠頭長矩」さんという人に斬りつけられる傷害事件が発生。
浅野内匠頭さんは現行犯で取り押さえられ、留置場送り・・・じゃなかった即日切腹!!
物語では
「我らが殿を即日切腹とは・・・・しかも庭先で切腹させたなんて許せん!!」
と赤穂藩の皆さんは憤るわけです。
しかし、切腹ってのは、「ここに至る罪を許してあげて、死後は名誉を回復してあげますよ」という、武士にとっては「華々しい最期」なわけですね。
だから「斬首」じゃなかっただけありがたく思ってもらわないと・・・・。
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しかし、赤穂藩のみなさんの怒りの理由はそれだけではありません。
当時は「喧嘩両成敗」という法律がありました。
つまり、喧嘩やらかしたんなら、双方に原因があるわけだから、双方ともに罰する、というもの。
でも、浅野内匠頭長矩さんは切腹で、吉良上野介義央さんはおとがめなし。
法律違反じゃねーか!というのが、赤穂藩の皆さんが、カチコミやらかした後の言い分なわけですわ・・・。(T_T)
噂では、浅野内匠頭長矩さんが吉良上野介さんに「いじめ」を受けていた・・・なんて話もあるんですが。
でもねぇ・・・・・・浅野内匠頭長矩さんといえば、切れやすい危険人物って噂もあったし・・。
それに対して吉良上野介義央さんは、自分の領地では「名君」として扱われているくらいの人物です。
ちょっとねぇ・・・・信憑性がねぇ・・。
それに、いきなり傷害事件なんておこしちゃったら「赤穂藩領地没収」ってのはわかりきったことですから、浅野内匠頭長矩さんの切れっぷりは、ちょっと短気が過ぎたんじゃないでしょうかね??
その後、赤穂藩は領地没収で、赤穂藩の藩士は全員失職!!
赤穂浪士・・・なんて呼ばれ方をしたのです。
浪士とは浪人、つまり「失業者」ですね。当時の元禄年間では「失業浪人」が3万人くらいいた・・・なんて言われてますが・・・本当かな?
ブチ切れてヤケクソになった赤穂浪士の皆さんは、1年以上もの間機会を伺って、殿様が果たせなかった吉良上野介にかたき討ちをする機会を伺います。
吉良上野介さんも、街の噂で「赤穂浪士が吉良上野介にかたき討ちをしようとしてる」って耳にしていたらしいですが、呑気に江戸で隠居生活。
そして、1702年12月15日、吉良さん宅で事件発生。
失業者47人が吉良さん宅にカチコミをかけて、老人「吉良上野介」さん(62)を殺害!
ご遺体は身体の一部(首)が持ち去られており、東京・泉岳寺のとあるお墓の前にお供え物として捧げられていた・・・・という目撃情報が!!
1702年2月4日、赤穂浪士の皆さんは切腹。
しかもその切腹に対して、最高の格式が用意されていたみたいです。
そして、彼らは主君の「浅野内匠頭長矩」さんと同じ「泉岳寺」に埋葬されました。
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■赤穂四十七士の目的
赤穂浪士の皆さんお見事!!と言いたいところですが・・・老い先短い老人を夜中に強盗ばりに襲って殺害・・・。
現代で考えると、「単なるやくざもんのカチコミ」としかいいようがない気がしますけど・・・・どうなんでしょうか?
実はこの「赤穂浪士討ち入り」の目的は「かたき討ち」ではなく、別の目的があった!!と言われているみたいです。
その別の目的とは何なのか?
それは「再就職」。
当時は戦国時代のように、武士の仕事であるはずの「戦争」がありません。
つまり、命を捨てて忠を尽くすという侍の本領発揮の場がなくなっていたのです。
そんな中、赤穂浪士の皆さんはいきなり失職!
それもお殿様の「短気」が原因だと言われているみたいです。
どうなんでしょうね!!短気でいきなり老人に斬りつけたなんていう、家来の失職について全く考えていない行動をとったお殿様のために、みんなが命懸けでかたき討ち?
そこまでしますか?侍の皆さん・・・・。
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実は、「忘れられた侍の本分」という忠義を見せた侍は、罪を減免されて、各藩からスカウトが殺到した!なんていう事例が、実際討ち入り事件が発生する直前にあったらしいです。
その事例での事件もまた「かたき討ち」。
そのかたき討ちをした侍は、失職していたのですが、スカウトをもらってめでたく就職。
それを知った赤穂浪士のみなさんも、もしかしたら、
「吉良のじいさんにカチコミかけて再就職」
を狙っていたのではないでしょうか?
当時再就職が難しい時代だったことは想像に難くないですけど・・・いくらなんでも夜中にじいさんの家に押しかけなくてもいいんじゃないの??(T_T)
それでもこの再就職計画、半分は失敗したんですが半分は成功したみたいです。
なぜなら子孫の就職が成功したから。
大石内蔵助さんの次男は、結構いいところに就職したみたいですよ。
大石内蔵助さん・・・自分は就職できなかったけど、息子を浪人の子から、見事に就職させたんだから、もしかしたら目的達成と喜んでいるかもしれませんね。
でも、海外でも「セブン・ナイツ」という映画になった「忠臣蔵」。
今更「あれは再就職活動でした」なんて、言えない気がするのは拙僧だけ?(^_^;)
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■脱落した赤穂浪士たちは再就職に成功?
さて、討ち入りに参加しなかった「赤穂浪士」の方々もたくさんいたそうですね。
お殿様を失って、それでもかたき討ちに参加せず、家族を守るために再就職先を必死で探した方々。
彼らは討ち入り事件の後、結構辛い状況に追い込まれたそうです。
討ち入り事件をやらかした47人は、世間から「武士の鑑」と言われて賞賛されました。
しかし、その盟約に参加しなかった他の赤穂浪士の皆さんは、「裏切り者」「臆病者」なんて言われて肩身の狭い想いをしたそうです。
中には、娘の嫁ぎ先で「臆病者の娘と暮らすことはできない」という理由で、娘を送り返された人もいたとか、名前を変えて農民になった人もいたとか・・・・。
運良く再就職した人もいたそうですが、中には討ち入りの軍資金を盗んで逃亡したやつもいたそうです。
おそらくその軍資金盗んだやつと、脱落者は同じ穴のムジナと見られて、批判をされたのでしょう。
ただ、中には「47人の討ち入りが失敗したら第2の刺客として吉良上野介さんを討ち果たす」なんて密命を帯びていたとも言われていますが、本当なのかどうか・・・。
それでもその脱落者の皆さんは、再就職先を見つけて家族を養っていたらしいですよ。
そう考えると、肩身の狭い想いをしたとしても、家族を養えたんだから、良しと考えていたのかもしれませんね。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・浅野内匠頭長矩さんが吉良上野介さんを斬りつけた。殺る気なら刺せばいいのに。
・吉良上野介さんは1年後に、カチコミ受けて亡くなった
・討ち入り事件の目的は「再就職活動」
・脱落者は再就職に成功したものや帰農したものなどがいたが「2次討ち入り」の密命を受けていたという噂もある
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
南無阿弥陀仏・・・。
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