井伊直平の勢力下・川名の里の伝説とは?毒殺という最期に隠された秘密
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大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公「井伊直虎」の曽祖父「井伊直平」
彼が支配したと言われている「井伊谷の川名の里」。ここに古くから伝わる皇子の伝説とは?
彼の最期は毒殺だったと伝わっているらしいが、どうして毒殺されなくてはならなかったのか・・・。
そこに隠された秘密とは・・・・果たしてなんだったのか・・・。
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南無阿弥陀仏・・・。
■「井伊直平」とは?
井伊直平・・・戦国時代に遠江井伊谷を支配した小領主「井伊家」の当主。
彼の子供には「井伊直虎」の祖父「直宗」・「井伊直親」の父「直満」・家康の正室「瀬名姫」の母「佐名姫」・井伊家の菩提寺「龍潭寺の住職」の「南渓瑞聞」などがいます。
他にも「直義」「直元」などの息子がいたそうですが、詳細は不明ですね。
井伊直平・・・・大河ドラマの「おんな城主直虎」では「前田吟」さんが演じておられる武闘派、結構イケイケな性格をしている武将として描かれています。
彼のひ孫世代は、かなりの大物が二名いまして・・・。
徳川四天王の1人「井伊直政」や、徳川家康の長男「松平信康」など・・・・かなり地位の高い人物が産まれているのですね。
彼は子供や孫達に次々と先立たれてしまい、最期に残ったのは「井伊直虎」と「虎松(後の井伊直政)」のみでした。
1563年、井伊家当主の「井伊直親」が、裏切りの罪で今川氏真と朝比奈泰朝に殺害された時、既に隠居していた「井伊直平」は幼い「虎松」の後見人となり、井伊家の軍勢を率いて出陣する身となったんですよね。
しかし、彼はその後長く生きることは出来ず・・・、1563年9月18日・・・今川氏真の命令で攻撃していた「社山城」の陣中で急死。
相当な高齢だったとも言われていますので・・・老衰かもしれませんが・・・それにしても、亡くなるタイミングが良すぎる気がするんですよね。
もしかして・・・・彼の死に、誰かの意思が働いていたとか??
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■井伊直平の死の秘密とは?
井伊直平・・・・・武闘派イケイケなその性格に似合わず、彼の最期は「毒殺」と伝えられています。
誰が井伊直平を毒殺したのか??
諸説あるそうですが、どうやら彼を毒殺したのは、遠江・曳馬城主「飯尾連龍」という武将だったみたいですね。
井伊直平は今川氏真からの命令で、社山城というお城を攻撃していたそうなのですが、その最中になくなったのだとか・・・。
井伊直平は、今川氏真の命令で戦をしていたにもかかわらず、今川軍の後ろから放火して、今川軍に損害を与えたそうなんですね。
直平はこの火事について、事故だと主張したそうなのですが、怒った今川氏真から天野という裏切り者を討伐してこいと命じられたのです。
その出陣をしていた最中に、味方だったはずの飯尾連龍から毒茶をすすめられて飲んでしまい、移動中に落馬。
この直後に服毒死したそうなのです。
井伊直政こと「虎松」の後見人をしていた直平が亡くなって、井伊家は窮地に陥ります。
ちょっと気になるのですが、この井伊直平の死・・・・小野政次が関係している・・・・なんてことはないでしょうかね?
この直平の死は、政次からすると非常に都合の良いタイミングで発生している気がするのです。
小野政次は大河ドラマ「おんな城主直虎」では、直親や次郎法師と幼馴染・親友として描かれていますが、現実的には小野政次は直親の父・井伊直満を殺害した小野政直の息子。
親の敵の息子である政次と井伊直親が親友であるはずがありません。
しかもこの後小野政次は、井伊家の領地を横領してしまうのですから、おそらくこの頃から野心があったのでしょう。
井伊家ではこの頃、井伊直盛も井伊直親も亡くなり、井伊一族の屋台骨はぐらついていました。
最期の大物・井伊直平が亡くなれば、家老である小野政次が虎松の後見人として権力を握ることは難しくないでしょう。
何といってもこの時虎松はまだ幼かったわけですから。
虎松は井伊直親が殺害された時に、今川氏真の命令で殺害されそうになりましたが、新野親矩の助力で命は救われました。
もしも虎松が亡くなっていたら、井伊谷の支配者は、おそらく今川氏真の縁者が送り込まれるという事になっており、小野政次が井伊谷を手にすることはなかったでしょう。
虎松には生きていてもらわないと困るが、直平は邪魔だった・・・。
小野政次・・・・・彼が直平の死に関わっていたという説は、あくまでも拙僧の推理でしかありませんが・・・後に井伊谷を横領し、野心満々だった彼にとって、直平のこのタイミングでの死は都合が良すぎる気がします。
何かしらの罠を張り巡らせていたのかも・・・。考え過ぎかな??
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■川名の里の言い伝え
大河ドラマ「おんな城主直虎」にて、今川家からの「検地」が行われた回がありました。
今川家から派遣された測量士たちが、井伊谷の生産力を鑑定し、その生産力に応じて賦役を与えようとしたわけです。
その時、井伊家では「川名の隠し里」を今川家から隠し通して、生産力を実際よりも小さく見せようとしましたよね。
隠し里の存在がバレそうになった時、高橋一生さんが演じる「小野政次」がこう言ってました。
「ここはかつて南北朝の時代に、南朝の皇子が隠れ住んでいた里。
それ以来ここは、井伊の領地にありながら井伊の領地にあらず、という扱いとなっております」
この川名の里に隠れ住んでいた「南朝の皇子」とは誰のことなのか?
南朝といえば、鎌倉幕府を討伐した「後醍醐天皇」が奈良の吉野に打ち立てた朝廷。
川名の里に隠れていた皇子とは、後醍醐天皇の第四皇子の「宗良親王」ですね。
宗良親王は後醍醐天皇が足利尊氏と敵対して京都を奪われた後、北畠親房に連れられて、伊勢から陸奥へ行こうとしたが船が座礁。
仕方なく井伊谷の井伊道政のところに匿われています。
その後、宗良親王は南朝軍の一翼となって足利尊氏などと交戦しましたが、戦況を挽回するには至らなかったみたいです。
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宗良親王は長く、この井伊谷近くを拠点として、北朝と戦っていたのだとか。
井伊谷には「足切観音堂」というお堂が存在しているそうなのですが、このお堂の仏像には言い伝えがあるそうです。
宗良親王は、ある日、井伊谷からの戦に出かけ、その戦闘で足を切りつけられて馬から落ちたのです。
しかし不思議なことに、宗良親王は無傷。
足も怪我なんてしていませんでした。
どういうことなのか???
宗良親王が無傷であった代わりに、足切観音堂の仏像の片足が、血で真っ赤に染まっていたのだそうです。
つまり、仏像が身代わりになってくれた・・・ということなんですね。
この足切観音堂は現存しており、天竜浜名湖鉄道「金指駅」から徒歩数分のところにあるみたいですね。
残念ながら足切観音像は非公開らしいですが、井伊谷の言い伝えを今に伝える貴重な場所なのだそうです。
ちなみに、井伊谷には、現在でも「井伊谷宮」という宗良親王を祀るお社があるらしく、学業成就などのご利益があると言われています。
井伊谷・・・南北朝時代には、最前線だったんですね。
戦国時代でも、德川・今川の最前線・・・かなり危険な土地柄だったのでしょうね。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・井伊直平は、毒殺されたという説がある。
・彼を毒殺したのは飯尾連龍。
・しかし、もしかしたら小野政次が関与しているかも・・・。
・井伊谷の川名の里には、南北朝時代に後醍醐天皇の第四皇子「宗良親王」が隠れ住んでいた。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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