井伊直盛の桶狭間の戦いでの最後とは?実は石高がかなり多い大大名?
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大河ドラマ「女城主直虎」の主人公「井伊直虎」
彼女の父親である「井伊直盛」
その壮絶な最期とは?
井伊家は実は石高がかなり大きかった?
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■井伊直盛、桶狭間へ出陣
井伊直盛・・・・女城主「井伊直虎」の父で、直虎の許嫁「井伊直親」の従兄弟に当たり、井伊直平の孫。
桶狭間の戦いでは、井伊直盛は36歳。
この年に彼は亡くなるわけですが、そこに至るまでの経緯を簡単にご説明いたします。
大河ドラマでは、井伊直盛は、今川家の目付役「新野親矩」の妹を妻として、一人娘「おとわ」をもうけていました。
しかし、井伊直盛には男児がおらず、このままでは井伊家は続かなくなってしまう恐れがありました。
その為、直盛は自分の叔父である「井伊直満」の息子「亀之丞(直親)」と「おとわ」を婚約させ、直親に家督を譲ろうと考えました。
そんな矢先、「井伊直満」が北条家と結託して今川家に反旗を翻そうとします。
それを阻んだのが井伊家の家老「小野政直」。
小野政直は井伊直満の謀反を今川義元に密告。直満は処刑されてしまいます。
今川義元は、直満の息子「亀之丞」をも殺害せよと命じますが、亀之丞こと直親は信濃の国へと逃亡。
そして亀之丞の婚約者「おとわ」は、亀之丞以外の男性との婚姻を避けるために出家。
ただ、この出家は「女性」としてのものではなく、「男性」としての出家だったみたいです。
「男性」として出家したため、名前が「次郎法師」という男性のお名前なんですね。
男性として出家してしまったということは、還俗・・・つまりお坊さんを辞めちゃったとしても、俗世間では「男性」として扱われてしまうため、たとえ還俗しても直親と結婚はできなかったんです。
ただ、「男性」として出家したことで、「次郎法師」は還俗しても男性として「井伊家」の後を継ぐことができるようになったのです。
10年後、小野政直が亡くなったため、井伊直盛は信濃に逃していた直親を呼び戻します。
井伊に戻った直親は、先述の事情で次郎法師とは結婚できず、かといって世継ぎを作らないわけにもいかず、奥山ひよという人物を妻に迎えます。
井伊直盛はこの時、今川義元に仕えていましたが、その今川家は、仇敵であった北条家と同盟を結び、武田家に娘を嫁がせて「甲相駿三国同盟」を締結。
敵を尾張の織田信長1人に絞る戦略を採用しました。
そして1560年、京都への道筋にあたる尾張の織田信長を討伐するために出陣。
井伊直盛はこの時、300ほどの兵を引き連れて参戦したと言われています。
しかし、「絶対に負けるはずのない戦い」は、思わぬ結果となってしまいました。
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■井伊直盛の最期とは?
桶狭間の戦い・・・・。
織田信長はこの時、籠城戦か・・・・それとも出陣して野戦で迎え撃つか・・・・を悩んでいたんだとか・・・。
しかし、後詰・・つまり援軍がいない状態では「籠城」してもジリ貧となることは目に見えていました。
おそらく今川義元は、信長は籠城すると思っていたことでしょう。
その為、食料の海上輸送なんかも考えていたかも・・・・。
その裏をかくためもあったのでしょう。信長は少数の部隊を率いて出撃。
今川義元の本陣がある「桶狭間」めがけて奇襲をかけます。
義元はどうやら馬に乗って逃げようとしたらしいですが、服部小平太に槍を付けられ、その後、毛利新助に首を取られてしまいました。
この時、井伊直盛は?というと、彼は桶狭間にあった今川義元の本陣からは離れた位置に布陣していました。
その為、おそらくですが今川義元が討ち取られたときも、井伊直盛は生きていたのでしょう。
ただ、義元討ち死にの報を受けて、部隊はかなり動揺・混乱したことが想像できます。
そんな中で、義元を討ち取ってテンションが上りきっている織田軍の掃討戦に巻き込まれたのでしょうから、たまったものではないでしょう。
織田軍はこの勢いに乗って、それまで今川に支配されていた尾張南半分と三河の一部を制圧したということですから、その勢いはかなりのものだったんですね。
井伊はこの戦闘で、数十人の死者を出したと言われているようです。
10%が亡くなったら大敗北、と言われている戦国時代の戦闘で、300人中数十人のが亡くなったとなると、被害は相当なものだったでしょうね。
この乱戦のなかで、井伊は重臣を10名以上も失ったとのこと。
混乱したなかに勢いづいた織田軍の追撃を受けたのですから、井伊直盛は応戦らしいものをする間もなく討ち取られてしまったのかも・・・。
36歳の若さで亡くなったと言われている井伊直盛・・・・。
まさか織田信長に負けるとは思っていなかったでしょうね。
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■実は井伊家は石高が多く豊かだった?
さて、井伊直盛、この桶狭間の戦いに参戦させた兵力は300・・・ということらしいですが、それって少なすぎる気がするのですが・・・・。
そもそも井伊家の最大動員兵力ってどれくらいだったのでしょうか?
最大動員兵力を調べるために、井伊谷の生産力を調査してみました。
それによると、井伊家が治める領地「井伊谷」という地は、この時「井伊直盛」と「井伊直親」の2人によって支配されていたのだとか。
井伊直盛のこの時の支配地域の石高は「25000石」。直親は「15000石」。
つまり合計で40000石。1石は米俵2.5。つまり井伊谷では年間10万俵の生産力があったということですね。
直親の息子である「井伊直政」は、1582年に「天正壬午の乱」での功績から、井伊谷4万石を家康からもらっているそうですが、この時「旧領を回復した」と言われているので、おそらく井伊直盛・直親の石高は4万石で間違いないのでしょう。
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井伊家の「最大動員兵力」は?
さて、では4万石で動員できる兵力はどれくらいだったのか?
1万石で動員できる兵力が、だいたい「250」だそうですから、おそらく井伊家の最大動員兵力は1千。
守備兵に半分残したとしても、残り500くらいの兵士は連れていけると思うのですがね~・・・。
今川義元が、相手の織田信長を侮って、500も必要ないと命令したのかも・・・。
この時の今川義元が支配していた地域は「駿河・遠江・三河」の三カ国。
この三カ国の生産力は50~60万石と言われているようで・・・・・。
実はこの時織田信長が支配していた尾張の北半分は、濃尾平野という一大生産地を抱えていたため、なんと今川三カ国とほぼ互角の50万石だったんだとか。
話を戻しましょう。
今川義元の支配地域の生産力を60万石とすると、井伊家の支配地域4万石は、約6.6%・・・・。
結構な割合を占めているような気がします・・・・。
井伊家って、今川家の中でも、かなりの大勢力だったのでしょうか?
まぁ、外様でしょうからね・・・。有力家来だったかもしれませんが、それほど信頼はされていなかったとは思いますが・・・。
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・井伊直盛は、桶狭間の戦いで討ち死にした。
・井伊谷の石高はおそらく4万石。
・最大動員兵力は1千程。
・井伊家は今川家の中でも結構な有力家来だったのだろう。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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それではこの辺で失礼致します。
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