板垣退助の名言の本当の意味とは?実はそんなこと言ってなかった?
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自由民権運動の指導者「板垣退助」
彼の名言といえば「板垣死すとも・・・・」ですね。
実はそんなこと言ってなかった?
その代わりに言った言葉があるとかないとか・・・。
「生臭寺院」へようこそ。
拙僧は住職の「生臭坊主」こと省略して「ナマズ」と申します。
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南無阿弥陀仏・・・。
■板垣退助について
土佐藩出身の政治家「板垣退助」
土佐藩といえば「坂本龍馬」が有名ですね。
坂本龍馬は身分制度の厳しい土佐藩で、低い身分の「下士」又は「郷士」というとても蔑まれた身分だったとか。
それにたいして「板垣退助」の身分は「上士」
司馬遼太郎の小説では「上士」は嫌な奴らが多い・・・と言われているみたいですが、この板垣退助は「清廉潔白」な人だったみたいです。
坂本龍馬のために勝海舟と協力して「脱藩の罪」を許してもらえるように活動したこともあるとか。
どうやら上士の中でも、下士に対して優しい上士だったと言われていますね。
同じく土佐藩上士の後藤象二郎の親友で、西郷隆盛らと協力して討幕を成し遂げたんだそうです。
戊辰戦争では参謀を務めており、武田信玄の家来「板垣信方」の子孫であることを利用して、甲州勝沼の戦いで近藤勇たちが率いる「新撰組」を倒しています。
明治政府では重鎮を務め、朝鮮国からの非礼、例えば「天皇」という称号、などへの批判に怒って征韓論を唱えたそうですが、その意見を岩倉使節団のみなさんに退けられて下野。
地元土佐で自由民権運動を開始。
その後、自由党を結成して党首に就任。
国民からの圧倒的な支持を受けたと言われています。
その後、1882年に「岐阜事件」と呼ばれる、暴漢に襲われる事件が発生!
負傷して、出血しながらも立ち上がってあの名言!!
「板垣死すとも自由は死せず」
と口にしたらしいです。
正確には
「吾、死すとも自由は死せん」
と言ったそうですが・・・・。
どうやら、これ・・・・言ってないという噂もあるそうです。
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■「板垣死すとも・・」言ってない?本当はあの「決まり文句」を口にした?
板垣退助さん。
暴漢に襲われた「岐阜事件」で負傷しながら
「板垣死すとも自由は死せず」
と言ったと言われてますが、これ、一説によると、「本人が否定」しているなんて話もあるみたいですね。
噂では、岐阜事件の現場に居合わせた「内藤魯一」という人が、この言葉を事件直後に叫んだとも言われているんだとか・・・・。
板垣退助本人に尋ねたところ
「声なんか出なかった」
と言っていたみたいですがね。
確かに、刃物で刺されて出血した際に、そんなこと言ってる暇があるとは思えません。
これも噂で申し訳ありませんが、板垣退助さんが口にした言葉はあの「名台詞」だという話です。
「痛ぇーから医者呼べ!!」
つまり現代風に言うと
「救急車呼べ!!」
ですね。当然の決まり文句です!!
確かに・・・・刺された時にとっさに出る言葉といえば、そんなとこですよね(TдT)
板垣退助といえば、「自由民権運動」で有名な政治家です。
当時、圧倒的な支持を受けて政治家として活動していたみたいですので、彼への不幸な事件が伝説として祭り上げられたのでしょう。
それにしても、もしも本当に「板垣死すとも・・・・・」なんて言っていたんだとしたら、超人ですね(*´∀`*)
最近話題の韓国の朴槿恵大統領も、刃物で斬りつけられた事件がありましたが、その時にこんな言葉を口にしてたら、今頃もっと違う運命にあたのかもしれません・・・。
イヤ、あり得ないかな(^_^;)
ちなみに、この「岐阜事件」を起こした相原尚褧さんという人は、後に特赦をもらって許されています。
相原さんに特赦が出された理由は、板垣退助が天皇陛下に進言したため。
それに感激した相原氏は、板垣退助さんに直接謝罪したんだと言われています。
この「板垣死すとも」を口にしたのが、「板垣退助」さんじゃなくて、「内藤魯一」さんだとしたら、「板垣死すとも」の意味が違ってくるんじゃないでしょうかね?
つまり「板垣退助が死んだとしても、俺達が自由民権運動を引き継いで、止むことはないぞ!!」
と言いたかったのかもしれません。
自由民権運動・・・・・・国士舘大学の倉山満先生が、減税と開戦を絶え間なく主張していた、とか、日露戦争では日本軍は奉天の時点で弾薬が尽きていたにも関わらず「首都・サンクトペテルブルクまで進軍せよ」と主張したとか、散々言ってましたけど・・・・でもまぁ、国民の主張が何よりも大切なのは当然ですからね~。
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■板垣退助は清廉潔白?
板垣退助はあまりにも清廉潔白な人物だったみたいですね。
彼は生活に困窮するほどお金に困っていた人らしく、私財のほとんどを自由民権運動につぎ込んだと言われています。
板垣退助は金に困って、自分の刀を質にいれていたとも。
つまり、私財を蓄えて私腹を肥やすような人間ではなかったってことですね。
彼は伯爵という華族の称号を持っていた人で、その爵位は子孫に伝えていく事が出来るものだったそうですが、板垣退助自身が「華族の世襲を禁止すべき」と主張していたため、息子の「板垣鉾太郎」さんは相続することなく、孫の「板垣守正」さんは爵位を返上。
子孫に何も残さずに亡くなったんですね。
西郷隆盛が「児孫のために美田を買わず」と言ったという話は有名です。
大久保利通が私財を全く残さず、公共事業に私財を当時ていたことも有名です。死後には8000円の借金が残っていたともいわれていますね。
偉人と呼ばれる人たちは、私欲にかられることはないんですね。
と思ったら、伊藤博文と井上馨は「金と女に汚かった」と、先程の国士舘大学の倉山満先生が言ってました。夢もへったくれもない話ですね(^_^;)
でもまぁ、歴史研究家がそう言っているってことは、真実なのかな?信じたくはないですけどね(TдT)
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■本日のまとめ
本日の記事をまとめますと
・板垣退助は自由民権運動を主導した政治家
・実は「板垣死すとも自由は死せず」の名言を言っていないらしい。
・清廉潔白で、西郷隆盛や大久保利通と同じように、お金を蓄えるようなことはなかった。
以上となります。
本日は「生臭寺院」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
またよろしければお付き合いくださいませ。
それではこの辺で失礼致します。
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